2005年05月07日
●悪質な社長
世間には性格の捩じれた社長もいるようだ。
私のであった最悪の社長は人間性が疑われるような人物だった。
今まで出会った社長の中で一番ふざけた人物は、宇和島の花火会社の社長であった。事前に取材の目的を具体的に提示し、取材ではどのような内容を聞き取りたいか、を知らせておいた。東京から飛行機、列車を乗り継いで宇和島まで出張したが、これは大旅行であった。駅前に一泊して、翌朝会社を訪問することになった。
社長室で取材を始めたのだが、先ずは江戸時代のご先祖様の経過から始まり、明治時代の先々代の職業などをユックリと丁寧に解説してくれた。次いで、戦後の親の職業と生活振りなどの説明と、親の面倒を見るために大学を中退して親の仕事を引き継ぎ、苦労した話などが続いた。ここまでの流れで1時間半ほどがかかった。私の取材の目的は隙間商品の企画と開発であり、ここの部分だけを詳しく聞き取りたいのである。ご先祖様が武士であったかどうかは関心がない。当の社長もそれを知っていたはずである。無関係な話が延々と続き、最後の30分になって花火を開発した動機や経過をチョロチョロと話しはじめた。それも具体的ではなく、ポツポツと何の脈絡もなく説明するので全体像が判らないものであった。不明瞭な点を問い正すと、とぼけたような返事をしてきた。全く事情が掴めない取材となった。取材の最後に、社長からは「マスコミは面白可笑しく表現するので嫌いだ」とぬかしてきた。工場の内部の見学も断られ、まともな取材とはいえない結果となった。予めこちらの意向を伝えてあり、見本誌も送ってあるのに取材には全く非協力的であり、私の取材を小馬鹿にしたような態度であった。
しかしながら、宇和島まで出張したため記事をボツにする訳にはいかない。あちこちから資料を集め、なんとか読んでも可笑しくない内容に仕上げた。酷い仕打ちをする社長であった。取材に協力できなのなら、事前に断ってくればいいはずである。宇和島まででかけて無駄足を踏んだばかりか、嫌な思い出となった。
その後、この会社と社長が気になったので関係者などから情報を入手してみた。すると、社長の因業な性格などが判ってきた。相当に歪んだ性格を持っているようで、共同経営していた実弟とは経理などのトラブルで裁判ざたとなり、骨肉の争いが続いているらしい。私ばかりに酷い仕打ちをしているのではなく、親族でも極めて冷酷な仕打ちをしていたらしい。また、花火のシェアーでは国内80%を占めて日本一、と自慢していたが、これも怪しいものであり、売上は年々低下しているらしい。銀行からの借入も限度になっているようで、会社の内情を知られたくないために私に工場内を見させなかった、ということが判ってきた。
その反面、マスコミ操作は昔から上手いようであり、地元の新聞の取材では好成績であり、業績が伸びているような説明をしていたようだ。現に地元紙には、優良地場産業であってシェアー日本一である、というインタビュー記事が何度も掲載されていた。私の取材では、単なる契約のフリーライターと軽く見たのではなかろうか。マスコミを手玉に取って、利用できる相手には調子良く、そうでない者には冷淡な態度を取ってきたのであろう。
こんな悪質な性格が捩じれた社長の会社は早く無くなって欲しい。今でもこの会社の名前を見つけると、あの取材の時の不快な思いが沸いてくる。
2005年5月7日
●呆れた社長
中小零細企業の社長の多くは朴訥で正直であった。
しかし、そうでもない社長にもであった。
私の取材では中小零細の製造会社ばかりであり、技術系の社長から話を聞くことが大半であった。モノ造り一筋の人生を経た人が大半であり、コツコツと堅実に会社を経営してきた人であった。このような社長はどちらかと言えば朴訥であり、会社創設から現在までの道のりを正直に説明してくれた。私の質問にも丁寧に答えてくれた。このような取材では、帰ってきてからその内容をまとめて一つの物語に作成する際に、その根幹がスラスラと続けることができる。つまり、取材で聞いてきた話の筋道から文章を作成するのが、何のよどみもなくきれいにまとめることができる。
だが、取材してきた社長の中には、文章を構築する際に途中でどうしても引っ掛かって、上手く文章が続かない場合がある。これは何が原因かと言えば、その社長が取材の途中で嘘を言っているのである。2時間位の取材の間に、途中で大きな嘘が混ざり、文章の前後で辻褄が会わなくなる現象である。あまり数は多くなかったが、平気で嘘を言う社長もいた。
チタンのナイフを製造していた社長は、最初から最後まで過去の自慢話が続いた。私の取材の目的である、隙間商品に出会ったキッカケ、製造の困難さ、販売の工夫などには答えようとはしなかった。社長からは、「俺はいかに儲けてきたか」「他人が気の付かない時から目をつけたのが優れていた」などの自慢ばかりであった。この当時は取材に慣れてなかったので、相手の機嫌を悪くしてまでも疑問点をしつこく質問することはできなかった。こちらの聞きたい点は、固いチタンからどのようにナイフを製作するかであった。取材から戻ってきて、録音テープを数回聞き返すと、おぼろげながら製作過程を推測することができた。粉末状のチタンを型に入れてプレスし、焼結してナイフの形に加工するのである。その形成の際に、刃先と背中側では粉末チタンの種類を変え、切れ味を良くすると同時に粘性を持たせているのが特徴であった。この推測が正しいかどうかをその社長に問い合わせたところ、社長からは掲載拒否の返事が戻ってきた。私の推測が当たっていて、外部には秘密の製造工程のようであった。社長が自慢話ばかりをしている内に、本人が気がつかないで秘密にしておくべき製作過程を漏らしていたのであった。多分社長はビックリしたのであろうか。それとも、ど素人なので製作過程は判らない、と思ったのであろう。何れにせよ、社長の考えていた取材は、彼が一代で築いた会社の自慢話を掲載してもらうことであったようだ。この取材はボツとなった。
もう一人の取材は、溶解炉のメーカーの社長であった。このメーカーの溶解炉は業界では評判の良いものであったが、社長自身は不愉快な人間であった。取材で学歴を問うと、「歯科大学卒で歯医者だったが、他人の口を覗くのが嫌で会社を興した」と返事した。しかし、卒業した年度からしたら歯学部を卒業できるような年齢ではなく、辻褄が合わない。関係機関に問い合わせたところ、その大学に付属した歯科技工士養成所の卒業であった。歯科医師ではなく技工士だったのである。現在は功成り遂げて業界でもトップの一国一城の主である。技工士であることを恥じる必要は無いはずである。堂々と過去の業種を述べれば良いはずだが、学歴を詐称していた。そこまでして飾る必要はないと思うのだが、飾りたくなる性格なのだろうか。この社長と取材しているとき、社長から私を試すような言葉があり、不愉快であった。
中小零細であっても、業績を上げているのであり、小さい会社といっても恥じる必要もなければ飾る必要もない。もっと自然体で自分の過去を話すべきではなかろうか。
2005年5月7日
2005年05月02日
●ヨタ出版社のインチキ雑誌
零細企業には変なヨタ出版社が取材することがある。
ヨタ出版社と間違えられて困ったことがあった。
あちこちの零細企業を取材していると、その会社の社長から『おたくの取材ではお金を請求しないのですか?』と言われることがしばしばあった。私よりも前にその企業を取材した出版社からは、『取材協力費』或いは『記事掲載費』と称して金銭を請求したことがあったようだ。また、電話で零細企業に取材の申し込みをすると、社長からは『金がかかるような取材はお断りしますヨ。』と断られることもあった。
これはどういう現象かと説明すると、雑誌を発行している出版社の中には、取材に対して金銭を要求してくるところがあるためである。一般には馴染みが薄いのであるが、世間を知らない中小零細の企業主を相手にして、悪どい取材をする出版社の存在がある。このような出版社では、少し余裕のある中小零細企業を見つけ出し、取材を持ちかけるのである。そして、取材が終わった段階で、発行する雑誌のページ数に応じた取材協力費を請求する。請求金額は記事の編成と内容により、十万円程度から数十万円までの範囲があるようだ。私が取材してきた企業の中には、実際に支払ったところもあった。
どういうカラクリになっているかと言えば、その出版社(以下、ヨタ出版社とする)からすれば一種の宣伝広告費の請求なのである。ヨタ出版社では月刊の経済雑誌を発行していて、書店で販売されているし、時々は新聞にその経済雑誌の広告が載ることもある。決してインチキな雑誌を発行しているわけではない。しかし、その雑誌はどこの書店でも購入できるというのではなく、都内でも紀伊国屋などの限られた書店の雑誌コーナーの隅に申し訳程度に置かれているだけである。それでも雑誌コードを持ち、毎月発売している実績のある一応は立派な月刊雑誌なのである。問題は、ヨタ出版社の取材方法と記事の内容である。
ヨタ出版社が発行する経済雑誌の大部分の記事は、中小零細企業の業績や、社長の奮闘記あり、ヨイショ記事と考えればよい。取材される企業は、どちらかといえば地方に所在し、一代で個人企業を立ち上げて業績を上げつつある企業である。夫婦で始めた事業が伸び、従業員も3、40名まで雇うようになって余裕が出始めたような企業が一番狙われているようだ。そんなターゲットをヨタ出版社が見つけ、甘言で取材を行って記事にするのである。協力費を貰っていることから、その会社の良いところだけを活字にするのは当然である。読んでいても面白くも何とも無い内容である。
こんなインチキ雑誌が成り立つのだろうか、と疑問に感じるかもしれない。しかし、ヨタ出版社は潰れずにインチキ経済雑誌を今も発行し続けている。これには取材される中小零細企業の方にも一つの要因がある。特別な才能がある訳でもなく、社会貢献してきた実績がある訳でもないが、地方都市で一旗揚げた零細企業主にとってはその事業を自慢できる場が無いのである。といって、貧乏をしている訳でもなく、数十万円程度の金銭は惜しくもない経済状況なのである。そんな時には、『俺も、一回は雑誌に載りたいな。』、『今まで会社を大きくしてきた苦労を活字にして貰いたいな。』というような心理になるらしい。事業が上手く回転してきて生活に余裕が出てくると、どの企業主にも名誉欲が出てくるらしい。そんな個人企業主の心理を汲み取り、ヨタ出版社では金銭を受けることの代替えとしてインチキ雑誌に社長の一代記や経営方針などを掲載するのである。
ヨタ出版社からすれば、どこのマスコミを扱ってくれないような平凡な零細企業を活字にして雑誌に掲載する。取材された零細企業主からすれば、一応は成功してきた事業を一般人に読ませたいという願望がある。社長からヨタ出版社に支払った取材協力費は、広告宣伝費として経理で落とすことができる。こうして、零細企業主とヨタ出版社の思惑が一致し、内容の無いインチキ雑誌がいつまでも続く土壌ができあがるのである。
このようなヨタ出版社が活動してきたため、良心的な零細企業ではマスコミ全体について良からぬ偏見が植えつけられていた。『雑誌の出版社では取材で金銭を請求するのが常套になっている。』、『マスコミは金でどのようにでも動く。』などの悪い方に見られることである。私が零細企業を取材するときに、時々、ヨタ出版社と同等ではないかと判断され、大いに困った経験があった。
私が今まで付き合ってきたマスコミは、日経新聞社、ダイヤモンド社などの大手出版社ばかりであった。それらは紳士的であり、取材では正確さと客観性を重視し、決して協力費を請求する企業ではない。全国に数多くある出版社の中のほんの少数のヨタ出版社の悪行のおかげで、私を含めて真面目に取材を行っている正規の出版社までもが悪いように解釈されることは困ったことである。
全国の中小零細企業の社長様にお願いしたい。まともな出版社とヨタ出版社を見分ける力を育成して下さい。
2005年5月2日
●取材先でのご接待
取材では時々御馳走になることもあった。
期待はしていなかったが、あまり回数は多くなかったのが実際でした。
取材していて有り難いのは、取材先から接待して頂けることである。限られた予算の中で、ギリギリの経費で取材しているため、接待して頂けると気持ちの良いものであった。卑しいようであるが、フリーの取材者としては千円、二千円の経費も自腹なので心から有り難いことであった。企業紹介をする上では、取材先からの饗応があってはいけないが、許容できる範囲であれば受け入れた。私の収入が激減していた時期であったので、出張先で食事を奢って貰えると、涙が出るほど嬉しかった。
接待はそれほど多いものではなく、山形に出張した時に温泉旅館に泊めてもらったこと、愛知に出張した時に社長の自宅に泊めてもらったこと、大阪に出張したときにホテル代を負担してもらったこと、の3回だけであった。それ以外の接待では、晩飯を御馳走になったことである。それでも回数は少なく、全部で数回もなかった。大阪では、私の大好きな河豚のフルコースを御馳走になって感激した。だが、大半の取材先では、インスタントコーヒーを1杯だけ出されてお終い、ということばかりであった。その会社から頼まれて取材するのではなく、こちらから無理を言って取材を申し込むのだから当然かもしれない。
1度だけ『お車代』として1万円の入った封筒を渡してきた社長がいたが、さすがにこれだけは困った。相手としては感謝の意味を込めてポケットにねじ込んできたのであるが、現金だけは受け取れなかった。この現金は後日書留便で丁寧に理由を述べて返送した。
私の取材で一番困ったのは交通手段である。駅の前に会社があれば不便ではないのだが、ほとんどの取材先は駅から離れているか、山の中に設立されているケースばかりであった。こんな場合は駅からタクシーを利用するのであるが、結構高い交通費となってしまう。取材費が乏しいため、きついものであった。事前に連絡して、駅まで迎えにきて頂いた取材先は有り難いものであった。数千円のタクシー代の出費でも私にはきついものであったからである。しかし、往復とも自腹でタクシーを利用するような場合には、泣きたくなるような気持ちであった。取材が終わって会社から出るとき、『駅まで送っていきましょうか』と言われると助かったような気持ちになることが多かった。
中小零細企業では、マスコミからの取材には慣れていないであろうが、せめて駅までの送迎だけはお願いしたものである。
2005年5月1日
2005年04月06日
●零細企業の社長の性格は
世間からは吹けば飛ぶような零細企業の社長を観察してきた。
意外にも人情家では無く、ドライな人達ばかりだった。
訪問して取材した企業の規模は、小さいのは夫婦二人で従業員がゼロの極零細企業から大きいのでは従業員50名の企業までの幅があった。現在の日本では中小企業の規模を規定する基準が無いため、世間ではこのような規模の企業をひっくるめて中小零細企業と呼ぶのであろう。しかし、従業員が50名もいる企業となれば、社員にはそれぞれに役割が分担され、大企業とおなじように組織化されている。これに対して、従業員が数名以下であれば、社長は親方で従業員が若い衆といった構図となる。事務室の隅にいても社内全体が見渡せて、社長が声をかけると全社員が直ぐに集合する、といった感じである。従業員数が少なく、社屋も自宅を改造したようなものであれば、家族的な雰囲気となっている。2、30年前の町工場、個人企業の格好であろう。
家族的な企業であることから、社長の性格、性癖も人情家であって、浪花節的な人ではなかろうかと想像できる。私もこの取材を始める前は、零細企業の社長は、映画『男はつらいよ』の出てくるタコ社長のような性格ではないかと予想していた。少しおっちょこちょいであり、腕は立つのだが営業が下手であり、皆から好かれるのだが会社は何時までも大きくならない。(余談なのだが、映画に出てくるタコ社長は、会社とトラさんの実家がつながっていて、庭先からトラさんの茶の間に上がり込んでくるのが何時ものパターンだ。タコ社長の会社は一度も映画の中に映し出されていない不思議さがある。)
しかし、取材を始めてから判ったのは、零細企業の社長は人情家でも浪花節的性格でもなく、ドライであり、緻密であった。取材前に予測していた社長の性格とは全く違っていた。私だけでもなく、一般の人達も取材前の私と同じような先入観を持ってみえるのではなかろうか。零細企業の社長は社員思いの人情家であって、義理と人情には厚い浪花節な心を持っているというのは、映画、小説などで創作されたものではなかろうか。
実は、私は取材した先の社長には必ず年賀状を出すことにしている。取材のお礼とその後の経過を知るための目的で、現在もこの習慣を続けている。だが、何度年賀状を出しても、返事が来るのは半分程度である。私の取材にはビジネスでの出来事として、ドライに割り切っているのである。取材中に、『この社長は随分冷淡な性格だな。』と感じ取られるときもあり、零細企業の社主だからといって人情家でも情熱家でもなかった。社長の言葉の端で『これは相当にしたたかな人だな。』と感じることもシバシバあった。
考えてみるとその通りであり、零細企業の社主だからといって、浪花節的にドンブリ勘定で経営をしていたならば何時かは行き詰まってしまう。しかも、取材した企業は小さいといえども同業者の中では成功した人達ばかりなのである。大企業の社主にも劣らない程の冷酷さ、大胆さ、金銭のシビアさを持ち合わせなければここまでやって来られないのであった。金銭のシビアさについては後で解説するとして、物事を冷やかに観察する目があり、決断する時は極めて冷淡であったことは特筆に値した。
2005年4月5日
2005年03月22日
●零細企業の応接室では
取材したのは何時も事務室であった。
零細企業には応接室や社長室は相応しくないのであろう。
今までに、訪問して取材した企業は36社である。取材では社長と面談するのであるが、「社長室」とか「応接室」などという立派な設備を持った企業は極く僅かであった。たまに豪華な応接室を設えた企業もあったが、それらは従業員が数十人の規模であり、自社ビルを保有している企業に限られた。従業員が十人以下の企業であっては社長室もなく、事務室の隅の方で事務机を挟んで取材することもあった。利益が出ていないので社長室が無い、という理由ではない。多くの取材先は高収入を得ているはずであり、社長室を作ろうと思えばすぐにできるはずである。だが、社長自身がナッパ服で作業現場に携わる零細企業では、「社長室」「応接室」は無用の長物なのであろう。隣の部屋で従業員が油にまみれて仕事をしているのに、社長だけが背広を着て社長室にいるようでは社員はやる気がなくなるはず。また、世間で知られていない零細企業を取材にくるマスコミもいないので、社長室を作る必要性がないのであろう。
零細企業は質実剛健がモットーである。社員が少ないし、売上げも少ないのであるから、豪華な社長室を持つ必要や理由はない。もし、従業員が十数名程度の規模の企業であって、三十畳の広さの部屋に本革製のソファーを並べた応接室を持っていたならおかしなものであろう。そんな企業は、虚業集団か詐欺会社と考えて間違いないであろう。応接室の豪華さで客を驚かし、いかにも利益が出ているかのように装うためであろう。会社の業績が悪いのに、豪華な応接室を持つ企業にはまともなものはないであろう。
そんなことは判っているつもりの私でも、工場の隅にある事務室の土間で取材するのはやっぱり抵抗があった。かっこうはつけなくとも良いが、静かに話ができる部屋を持って欲しい、というのが本音であった。取材している隣が事務机であるため、電話のベルの音が耳に入ると取材に集中しにくいのである。或る社長には、取材が終わってから「来客のために豪華ではなくとも、静かに面談できる部屋を作られた方が来客のためによろしいですよ」と進言したことがあった。社長は、「私は今まで気づかなかったが、商談にくる来客には応接室が無いことで不便に感じている人がいることが判った。今後の参考にします。」と仰った。
事務室の隅での取材では、大抵は社長一人と面談することになるが、たまに奥さんと二人から話を聞くこともあった。二人で会社を興し、奥さんが専務であって経理などを司っていることから、二人からお聞きするするのが都合が良いからであろう。結婚してから二人で会社を切り盛りされてこられたのである。創業時の苦労話などを聞くことができ、微笑ましいことである。
その逆に、大人数で取材をしたこともあった。高崎市にある焼却炉のメーカーを取材した時は、雑誌社が取材にきたというので社長が張り切っていて、専務以下技術陣を揃えて6名を相手にして取材することになった。会議室で6名を相手にして質問し、それの回答を聞くのである。こんな取材では、あちこちから回答が出て、それぞれが異なった意見を述べるのでまとまりがつかない。零細企業の取材では、社長一人から話を聞くのが一番である。
2005年3月21日
2005年03月21日
●取材で注意したこと
取材では社長から説明を受けることになる。
社長との面談では誤った情報を受けないように注意した。
取材では、商品開発については次のような順序で質問することにした。
①どのようなキッカケで隙間商品を開発することになったのか。
②隙間商品を開発して試作品を完成するまでの経緯はどのようなものであったか。
③試作品を完成するときの最重要な点はどこであったか。
④隙間商品を販売するためにはどのような行動をしたか。
⑤販売ではどの点が困難であったか。
⑥これからどんな商品を開発していくか。
この取材が終わったなら、会社についての質問をする。
⑦どのような理由で会社を興したか。或いは、先代から引き継いだか。
⑧隙間商品を製造するまではどのような仕事をしていたか。
⑨会社の経営ではどのような点で苦労してきたか。
⑩これからの経営計画や将来の夢はどのようなものか。
このような一連の質問と回答を行うことにより、隙間商品の開発と会社の経営内容が明らかになってくる。取材前に質問事項をメモ書きしておき、順番に質問することで必要事項を漏れなく聞き出すことができる。取材の最初の頃は手間取ったが、何回も取材を重ねていくうちに聞き取る要点が判るようになった。社長と始めて会って、その場の雰囲気や社長の個性に合わせて、質問事項や内容を適当に変えたりしていくこともできるようになってきた。
一つの会社について全ての話を聞き取るには、だいたい3時間前後の時間で完了する。これよりも長い時間をかけて聞き取りしても、それ以上は大した話は聞き取れない。また、社長の時間を拘束するにも限度があるため、3時間程度が取材に丁度良いと思われる。何日もかけて聞き取りしても、結果としては同じ程度の結論しか得られないであろう。この程度の時間が、質問を受ける社長も飽きがこなくて良いのではなかろうか。
3時間程度の面談であるが、社長が生きてきた人生の経路を聞き出すことができる。苦労人であった社長はその苦労してきた経過が、才覚のある社長はその才覚をどこで活用してきたか、などが手に取るように理解できる。雑誌掲載のための取材であることから、それぞれの社長はホラを吹くわけでもなく、淡々を人生を語ってくれる。そうした話を聞くことで、その社長自身の人格や個性を知ることが出来る。
ここで注意しなければならないのは、社長の解説がどの程度まで信憑性があるか、である。その会社の商品がオリジナルであるかどうか、市場占有率がどの程度であるか、売上高が本当であるかどうか、などである。往々にして、自社商品は拡大して解釈し易いものであり、ホラではないが間違った説明をする社長も見受けられる。このために、予め入手しておいた帝国データーバンクの企業情報が役に立つ。実は、取材前に企業情報を何度も読み込み、その会社の内部事情を頭に入れておくのである。社長の説明の内で、企業情報を大幅にかけ離れた事項が出てくると、『これは奇怪しいな』と警戒し、何度も同じ質問をすることにした。すると、社長の記憶違いであるか、社長自身がホラを吹いているのかが判別することができた。ホラを吹いている場合には、「これは注意した方がいいな」と心の中で考えつつも、その取材の最中では黙っている。後で、原稿を作成するときに修正すば良いからである。
誠実な性格の社長では、企業情報に極めて近い数値を回答してくれるが、中には売上高などを企業情報のデーターよりも水増しして話す社長もいる。雑誌に掲載された時に、世間に恰好良く見せようと企んでいたのであろう。そんな小細工は直ぐにバレることが判らない社長もいるようだ。取材で注意しなければならないのは、現実の数値が正しいかどうかである。社長の個人的な説明を真に受けて、誤った(ホラのついた)数値を雑誌に掲載したのでは、読者を騙すことになる。私の取材では、この点については細心の注意を払ったつもりである。
2005年3月21日
2005年03月12日
●取材では全国の僻地にでかけることになった
取材先の了承を得ると具体的な取材が開始された。
しかし、全国のニッチ企業はとんでもない場所にあった。
特異な隙間商品を製造或いは販売しているニッチ企業の取材の手順は、すでに説明した。まず、取材候補の企業を見つけ、企業信用情報により取材に適するかどうか判断する。取材に適すると決定したなら取材依頼書をその企業に送って打診し、それに企業が対応してくれることになってやっと取材が始まる。取材先を決めるまでが一苦労あり、相手企業が協力しなければ原稿ができない。結構ややこしい仕事なのである。
取材候補の企業が了承してくれたなら、そこでやっと私が取材できることになる。取材では、遠距離であっても電話取材などと手抜きはしない。企業の本社がある場所まで出向き、会社の建物や工場内部を見学して本当に活動しているかどうかを確認しながら取材する。この取材では、北は山形県酒田市、南は長崎県大村市まででかけた。実際に会社の内部を見学すると、その会社がどのような状況にあるのかが肌で感じ取ることができる。活力のある会社では社内が賑やかであり、どことなく明るい。少し落ち目になった会社では、社内に淀んだ空気が流れている。このような雰囲気は見本市などで商品を見ただけでは判らないものである。取材では必ず会社にでかけ、現在その会社がどのような状況にあるかを嗅ぎつけることににした。三流経済雑誌などでは、出張の手間を省くため電話で聞き取りし、適当に話をまとめて原稿にするところもあるらしい。そんな取材であっては取材先の企業がどんな状況にあるかは把握できるはずがない。良心的な原稿を作成するためには、必ず現地を見学し、社長の話だけでは得られない社内の雰囲気を入手する必要がある。
取材のためにニッチ企業を訪問することになるのだが、簡単に訪問できる場所にあればよいのだが、現実はそうでもないのである。地方にある会社で、空港の近くや特急の停車する駅の近くに立地すれば日帰りも可能なのだが、そんな会社は少なかった。2時間に1本の列車しか運行しない鉄道線を利用しなければたどり着けない場所にある会社も多かった。東京から一番時間がかかった取材では、愛媛県城辺町にある会社にでかけた時であった。松山空港までは飛行機で1時間強であったが、そこから特急で宇和島まで移動し、さらにローカルバスに乗り継いで2時間かかった。兵庫県三木市の会社を取材したときも似たようなものであった。加古川駅までは新幹線であったがそこからは1時間に1本のローカル鉄道であり、無人駅から会社までは田んぼの中の細道をひたすら歩くだけであった。ニッチ企業にたどり着くのは難行苦行の連続であった。
しかし、よくよく考えてみると、ニッチ企業にとってみれば雑誌社の取材に便利な場所に創設したのではない。隙間商品を製造するのに適した場所に会社を創設しただけのことである。土地代が安く、騒音を出しても回りの住宅から苦情のこない場所を選んでいるのである。大企業であれば大量生産するため、部品の納入、製品の搬出などで昼夜を問わずトラックが出入りし、物流の便利さが立地に大きな要素を占めてくる。しかし、隙間商品はそれほど数多く生産するのではないため、大企業と違って高速道路や幹線道路に接近する必要はないのである。こんな理由で、ニッチ企業は山奥や辺鄙なところで運営されているのであろう。交通の便が良いからといって隙間商品が売れるとは限らないのである。
結果として、私は全国の僻地を旅行したことになったが、今となっては楽しい思い出になった。
2005年3月11日
2005年03月06日
●取材先の最終審査
見本市で見つけたニッチ企業であっても取材対象にはならない。
編集部と協議してから、取材先が最終的に決められた。
見本市でニッチ企業を見つける方法は前回説明した。しかし、これで直ぐに企業取材をするのではない。月刊誌『φ』の編集部と協議し、取材するための最終的な判断をしなければならない。私が見つけてきた企業名により、編集部では帝国データーバンクによる信用調査の情報を入手する。帝国データーバンクの信用調査報告書では、依頼された企業の業績、社長の個人的な性格、今後の見通しなどが事細かく記載されている。この報告書と私が入手したカタログなどの資料を比較し、取材するかどうかの検討をするのである。
商品の実物やカタログなどで判断すると非常に優れた隙間商品を製造している企業であっても、社長の経営手腕が悪いために赤字続きの企業もある。ニッチ企業の取材であっては、これから健全な中小企業を運営していきたい読者の見本となるような企業でなければ取材に値しない。私の取材では、商品製造の技術力を評価するのではなく、企業全体を通して中小企業のあり方を考えさせるのが目的である。赤字会社であっては取材先としては不適当であるため除外される。このような企業は、技術者が興した中小企業に多く見かけられるパターンである。社長が開発技術力を過信し、最高の性能をもつ商品を開発したのだが、市場とマッチングしないので売れ行きが悪いのである。社長は技術の研究と同時に経営の研究もしなければならないのである。
編集部との打ち合わせで、私が見つけてきたニッチ企業の中からさらに絞られて取材先が決められる。私が見つけてきたニッチ企業の内で3社に1社程度の割合で、取材先が最終的に決められた。
最終的に取材先が決められると、編集部から取材先の企業に向けて取材協力の手紙が発信される。丁重に取材の目的、雑誌の性格などを記載した手紙が見本誌と共に送られるのである。これで取材先企業が了解すれば取材開始となり、私がニッチ企業に出向いて社長を取材することになる。
この流れのようにして取材がすんなりと進めば別に問題はないのだが、中には取材を断ってくる企業もある。何社かは取材を断られた。それらのニッチ企業は、『わが社の商品は特に問題もなく売れている。貴誌に取り上げられて宣伝してもらう必要はない』というのが共通した断り文句であった。それはそうであろう、商品が売れなくて困っている訳けでもなく、特定の業界では十分な知名度があって業績は優良なのである。寝た子を起こすようにしてまでして、社会に知られる必要もないのである。取材を断られた数社は、内部留保も高く、トヨタ自動車と同じくらいに超優良企業もあった。
しかし、こんなへそ曲がりなニッチ企業は少数派である。大半の中小企業では大歓迎であった。それまで会社を経営してきたが、雑誌に取り上げられるのは始めてである。しかも、ヨタ雑誌ではなく天下の富士総合研究所が発行するまともな雑誌なのである。社長の経営実績が勲章のように評価されたようなものである。こんな絶好の申し込みを断る中小零細企業主はまずないと考えた方がよいであろう。
長崎県で零細企業を細々と運営してきた七十歳を越える老社長は、私の取材訪問を大歓迎してくれた。老社長の長年の悲願は、自社開発の商品を販売することであった。若い時からの壮大な夢が老年になってやっと実現し、その実績が活字となって評価されるのである。地方で悪戦苦闘してきた成果が発表されるのだから、感激しない訳にはいかないであろう。これは社長業をしてきた者でしか判らない感動であろう。
2005年3月6日
●取材先の発見方法
取材先であるニッチ企業は見本市で見つけた。
ニッチ企業を見つけるのは効率の悪い作業であった。
見本市でニッチ企業を見つける手順について説明しよう。これは私が試行錯誤しながら考えた、最短時間で最適のニッチ企業を見つける方法である。他の人でも応用できるかどうか判らないが、多分ソックリは真似できないと思う。それは商品を見極めるための基礎知識や目的意識が異なるからである。もし、私と同じような行動をされる人がお見えになるのであれば、その人独自の調査方法を編み出されるのが最良かと提言します。
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見本市の会場では、入口前にある来場者登録所で入場者カードを提出し、入場許可プレートを貰う。入場許可プレートには氏名、社名などが記載され、これを首から下げて入場する。このプレートさえあれば、一日会場に出入りすることができる。ここまでは通常の来場者と同じである。
会場に入ったならば、場内の配置図を眺めてどのような順路で歩くかを検討する。広い会場は掘っ建て小屋のようなブースがあちこちに並べられていて、あたかも長屋のような配置になっている。4、5社のブースが一つの長屋となっていて(業界ではこれを『島』と呼んでいる)、長屋が等間隔に配置されている。上から見ると、あたかも京都の市街地のような区画割りなのであるが、必ずしも正確に区画割りされているのではない。所々には邪魔な設備があったり、直進できない配置となっていることがある。まず、配置図を眺めながらどの順路で歩くと、最短距離を歩いて数多くのブースを見学できるかを判断する。つまり、一筆書きのようにして全体の出展者と出会えることの順路を考える。
頭に想定した順路で場内を歩き、各ブースに並べられた商品や見本を眺めていく。そのなかで、テレビや新聞などで広告されているような周知の企業の前は素通りする。著名な企業では隙間商品を製造していることはないからだ。ブースの中に、今まで見たことの無いような商品や珍しい商品が並べられているのを見つけたなら、少し離れた位置でそれを観察する。数秒眺めていると、その商品が隙間商品であるかどうか大体判別できる(判別できるまでに1年以上の修行が必要だが)。取材できるような商品であるならば、ブースに入っり、手に取ってじっくりと眺めてみる。ブースにいる係員は商談のために待機しているのであり、商品を勝手に触ろうが持とうが文句は絶対に言わない。むしろ、商品に関心を持ってくれたことに感謝しているはずである。商品について疑問があれば、ドンドン係員に質問してみる。年間生産台数、売上高、市場占有率など、聞き出したいことは尋ねてみる。回答の感触で、それが隙間商品としての価値が認められるのであれば、やんわりと会社の内情を探ってみる。創業年数、社員数、支店数などである。小さな会社では、社長や専務あたりが率先してブースに待機していることが多いため、かなり突っ込んだ質問でも受け答えしてくれるため、期待しているような情報を得られる。こうして、商品を観察した判断と説明員からの企業情報の二つから、取材するに相応しい企業であるかどうかを判断する。取材の見込みが立ったなら、カタログなどの紙資料はなるべく多くを頂いてくる。
見本市の場内を回りながら、このような手順を繰り返すことで取材先を見つけることができる。しかし、見本市に出展している企業であっても、全ての企業が取材対象となるのではない。前回に説明した条件に該当する企業でなければ取材先とはならない。今までの私の体験からすれば、二、三百社が出展している見本市で、取材先になりそうな企業は1、2社であった。数百社が出展している見本市であっても、全く取材先が見つからないこともあり、これは運によらなければならない。
このように、足で歩いて実際に見本市に出掛け、取材先を見つけるのは原始的な方法である。運良く会場で取材先を見つけることができれば良いが、運悪く見つけることができなかった場合は一日が全て無駄になってしまう。マスコミとしては一番効率の悪い取材先の探し方なのである。この効率の悪い方法を実際に行ったのが私であった。
2005年3月6日
2005年03月01日
●見本市会場での疲れ
見本市会場は広大であり、歩くだけである。
コンクリートの床は疲れがたまりやすかった。
見本市でニッチ企業を見つけることになったのだが、これは難行苦行であった。
見本市の会場にまで出掛けるのが一仕事である。往復の交通機関で多くの時間が費やされる。見本市は平日に開催されていることが殆どで、一日の仕事を休んで見学することになる。事務所にいて仕事をすればそれなりの収入になるはずであるが、その仕事を中止してニッチ企業を見つける作業に振り変えるのである。しかも、これは取材対象となるニッチ企業を『見つけるだけ』の作業であり、原稿作成とは別のものであり、全く収入にはならない。しかも、この見本市には年間30回程出掛けたので、30日分の私の仕事を放棄していたことになる。ニッチ企業を見つける作業を開始してからは、私の収入はみるみる落ち込み、年収四百万円以下に落ち込んでしまった。それまでの蓄えを取り崩し、連載が終わるまでの間は辛抱の連続であった。
次に、見本市会場に入場してからは、会場内の出展者のブースの全てを見て回ることになる。テニスコートなら数面が入りそうな巨大な体育館のような会場は細かく区切られ、左右前後3メートル程度のブースが設営されている。これらを片っ端から見て回るのである。小さな見本市でも数十社の出展者があり、ギフトショーのような巨大な見本市では出展者が二千以上にもなる。これらを丹念に見て歩くとなれば、巨大の会場を縦横に数回は往復しなければならない。午前10時頃から午後5時頃まで、昼食の30分を除いて歩きっぱなし、立ちっぱなしである。万歩計をつけて測定してみたら、1万二千歩以上になった。この程度の歩数ならば、芝生や砂利道のような柔らかい面を歩くのであればそれほどの負担にはならない。だが、見本市会場の床は厚いコンクリートに覆われていて、歩くことが辛い。特に冬場の寒い時期では、コンクリートの床から寒さが伝わるので足元が痛くなる。こうして、会場内を一日歩くだけで、足の関節がガクガクとなるような疲れが溜まった。それでも、見本市で目指すニッチ企業を見つけられたときはまだ幸せである。見本市で一日を費やしたが、取材できるような企業と出会わないときもある。そんな時の帰路の車内では、身体の疲れに加えて精神的に滅入ってしまい、ガッカリすることもあった。
2005年3月1日
●見本市でニッチ企業を探す
連載が決まったので、まずは取材先を見つけることになった。
ニッチ企業が集まりそうな見本市にでかけることにした。
この件は拙著「大商談」に詳しく書いたのでご参考にしてください。
雑誌に原稿を掲載することは決まったが、取材先を見つけなければならない。隙間商品を製造しているニッチ企業である。一般には知られていない隙間商品を製造している中小零細企業を見つけるためには、どのような方法があるだろうか。新聞、雑誌などでは広告されていることは少ない。業界紙、専門誌には広告が掲載されていることもあるが、業界紙は数千種類あるといわれる。一つ一つをつぶさに読んでいたのではきりがない。また、インターネットなどでも検索できるような企業ではなさそうである。
あれこれと取材先を見つける方法を考えていたら、ニッチ企業と出会うことができる方法があることに気がついた。『見本市に行ってニッチ企業を見つけよう』というものだった。見本市では規模の大小を問わずに、各種に企業が参加している。ここでは見本の商品を出品しているため商品の実物を手に取って観察でき、出展者から直接説明を受けることができる。中小企業が出店しているブースでは、その企業の社長自身が待機しているため、企業の経歴や業績などを聞き込むこともできる。社長と会話しながら、社長自身の人間性も観察することができる。私が決めた条件に適合する取材先を見つけるには、まさに理想的なものである。
こうして、雑誌に連載する半年前から見本市にでかけ、取材先を探し出す作業が始まった。しかし、これは大変な作業であった。
東京付近で見本市を開催している施設は、東京ビッグサイト(江東区青梅)、幕張メッセ(千葉市)、パシフィコ横浜(横浜市)などがある。この他にも小さな施設で細々と開催している見本市も数多くみられる。各施設から発行される見本市の予定表を眺めながら、私の取材目的に適合したニッチ企業が出展していそうな見本市を選んで見学に行くことにした。まず、各見本市会場から発行されている予定表を入手するのだが、これが結構手間であった。その施設にまで出掛けなければ入手できず、うっかりするとその月の予定表を入手するのを忘れてしまうこともあった。
さて、東京付近に存在する数多くの見本市会場の中で、東京ビッグサイトは年間開催回数が一番多い施設である。国内で開催される見本市の80%はビッグサイトではないかと推測される。これは東京駅から一番近いことで、ビジネスマンが通いやすいからである。他の理由として、東京ディズニーランドに近いことがあげられる。地方都市から見本市を目当てに上京した家族連れでは、一日を見本市会場で過ごし、次の日を家族全員でディズニーランドで遊ぶことができるからであろう。小さな施設で開催されている見本市も面白い内容のものがあり、棺桶の見本市やラブホテルの見本市は大きな施設では開催されていなかった。
私はあちこちの見本市会場に出掛けたが、結局のところ、一番多く通ったのは見本市開催回数が多い東京ビッグサイトであった。平成10年頃では、新宿からビッグサイトへの交通の便は極めて悪く、東京駅からバスで出掛けるか、新橋からゆりかもめで出掛けるか、浜松町からバスででかけるかの方法しかなかった。新交通機関の『ゆりかもめ』は比較的気持ち良く移動できるが、切符代が馬鹿高かった。一番安い方法は浜松町からのバス便であった。新宿から浜松町まで山手線に乗り、浜松町からビッグサイトまでバスに乗ると1時間20分以上もかかった。現在は、JR埼京線直通の『りんかい線』が開通し、新宿からは30分程度で到着できるようになり、便利になった。当時は朝10頃に新宿を出発し、見本市が終わってから新宿に戻ると夕6時過ぎになり、都内を小旅行するようなものであった。
2005年3月1日
2005年02月25日
●取材先の条件を決めた
企業取材では取材先を決めることが大切である。
マスコミ職業人のように安易なことはせず、独自の基準で取材企業の条件を決めた。
私の企画した『中小零細企業で特異な商品を製造・販売している企業の商品開発と社長の経営哲学』を取材する案は、平成10年(1998年)夏頃に採用された。翌年平成11年1月より、月刊誌『φ(ファイ)』に連載できることになった。
このため、取材先として最適な企業を見つける必要性が発生してきた。雑誌記者などのように、日常業務として取材を取り扱っている人達は、取材先を見つける作業は極めて簡単な方法で行っている。過去に新聞、雑誌、テレビなどで取り上げられた企業の内で、一番都合の良さそうな企業を取材先に決めているのだ。最近ではインターネットで特定の単語を設定して検索し、マッチングした情報により取材先を決めているようだ。また、企業からの売り込みにより、毎月多くの資料が郵送されてくるため、その中から適当な企業を選ぶこともある。
取材先を探すこと、取材先を決める作業は最も楽な方法で行っているのが実情である。要するに手抜きであり、マスコミとして自己の足で社会を探ることまではしていないのである。雑誌記者達の多くは、他社の雑誌をペラペラと捲ったり、新聞のスクラップの中から取材先を引き出しているのである。書店で販売されている雑誌を良く観察すると判るのだが、同じ企業を複数の雑誌社が記事にしていることを見かける。これは、その時の時流に合わせて取材し易い企業に多くの雑誌社が集中し、同じような傾向の記事を別々に掲載しているからである。どの雑誌を見ても、同じ企業が同じような説明で解説されているのにウンザリすることがある。それは、記者の情報収集の手抜きから発生したものである。
目立たない企業を拾い上げ、それを成長させようとするマスコミ魂を持たず、ただ無難な内容の記事しか掲載できない記者が多いのである。関東圏には、編集者、ライターを生業としている人達が約3万人いると言われる。それらの殆どは自己の氏名で単行本を発刊できるまでの実力を育成できず、日々の生活のために締切りに追われた人生を終えるのである。その原因は、取材に時間と労力を使わずに安易な方法でお茶を濁しているからである。
そんなマスコミの内情を知っているため、私の中小企業取材の連載では次の条件を課した。
①実際に商品を手に取ってみて、納得できるものである。
②事前に社長と会話して、人柄、経歴などが良好である。
③今までにマスコミで取り上げられた体験が無いこと。
④業界でのトップ企業か、オンリーワン企業である。
⑤企業の経歴が10年以上あって、黒字であること。
この条件に合致しない企業の取材は絶対にしないことにした。単純なようであるが、実はこれは大変困難なハードルなのである。こんな条件に当てはまる企業は滅多に出会わないからである。ここから私の第一の苦難が始まったのである。
2005年2月24日
2005年02月14日
●雑誌社を見つけるのが困難だった
時間もできたので、ニッチ企業の研究と分析を始めることにした。
しかし、私の企画を採用してくれる雑誌社は見つからなかった。
ニッチ企業の内情を知るためには、私だけの独断で企業を訪問し、社長から話を伺うことは無理である。どこの馬の骨か判らない男を迎え入れ、商品開発や経営方針などを説明してくれるような気の良い会社なんて存在しない。私と合うことで何らかのメリットがなければ企業は相手にしてくれない。企業にとってのメリットとは、雑誌にその企業の業績などが掲載されることで、広告効果が発生したり、世間に実績を示すことである。私がニッチ企業を取材するためには、どうしても雑誌社の協力が必要である。このため、平成9年(1997年)の春より、私の取材に協力してくれる雑誌社を探すことになった。
『隙間商品を製造しているニッチ企業の取材と分析』とタイトルをつけた企画書を作成し、あちこちの雑誌社を訪問することになった。日経ベンチャー、週刊ダイヤモンド、月刊プレジデントなどのメジャーな経済雑誌社から始まり、聞いたことのないような発行部数の少ないマイナーな雑誌社までも、ありとあらゆるコネを使って企画書を持ち込むことになった。だが、どの雑誌社も採用されず、話は進展しなかった。私の企画が採用されなかった理由を考えてみると次のようになる。
まず、どの雑誌社の編集部でも『ニッチ企業』の実体を理解することができなかったことがある。世間では知られていない中小零細企業の一部であり、編集部ではそんな小さな企業のことを正確に理解することができなかったからである。次に、雑誌社はその雑誌を売ることで成り立っている。雑誌が多く売れなければ儲からないのである。このため、記事の内容は一般の人が関心を持つ記事に偏る傾向がある。著名な企業の記事であればそこの従業員が書店で購入してくれる可能性が高い。例えば、ソニー、東芝などの大企業であれば従業員は数万人もいる。関連企業を含めれば一桁多くなるはずである。こんな有名企業の業績や経営内容を特集すれば、全員とはいわないが1割程度の従業員は雑誌に手を出してくれる。競合会社の従業員も、相手の企業の実情を知りたいために読むであろうからもっと売れるはず。こんな理由から、経済雑誌では著名企業、上場企業の記事は掲載するが、無名の零細企業の記事を載せたくないのである。
あちこちの雑誌社に売り込みをかけ、虚しく一年ほどが過ぎた平成10年(1998年)の夏、偶然に富士経済研究所(現在は、みずほ総合研究所に変更された)の編集長と出会うことがあった。当時、富士経済研究所は月刊雑誌『φ(ファイ)』を発行していた。この雑誌は発行部数が三万部と少ないながら、実験的な内容を盛り込んだ編集方針をとっていた(実際、赤字覚悟で発行している、富士経済研究所の看板雑誌であったが)。この編集長に企画を説明したところ採用となり、平成11年1月から連載してもらえることになった。ここから私のニッチ企業の調査と研究が世の中にでるキッカケとなったのであった。雑誌『φ』(現在はタイトルが変わって『フォーレ』となり、継続して発行されている)と出会わなければ、私が考えていたニッチ企業創業論や隙間商品の開発分析は日の目を見ることが無かったであろう。この雑誌と編集長には感謝している。
2005年2月14日
2005年02月12日
●高校を卒業するときに考えたこと
高校を卒業し、社会に出るとき考えた。
漫然と人生を送るのではなく、目標を決めた。
話は逆になるのですが、私が高校を卒業する時、将来はどのようなことをしてみたいかを考えたことがあった。高校を卒業して社会に出るのだが、長い人生の目標みたいなことを考えていた。人生をボンヤリと過ごすのではなく、取り敢えず遠い目標を設定してみた。明確に決めたものではなく、その時はボンヤリとしたものであったが、だいたい3つを目標にすることにした。それらは次のようなものであった。
1、事業で成功して金持ちになる。
2、知名度の高い有名人になる。
3、私の生きてきた痕跡を残す。
この3つの目標の内で、『金持ちになる』ことは早々と見切りがついた。私は小銭を稼ぐことはできるが、人を使って事業をするような性格ではなかったからである。金持ちになるには様々な要素が必要であり、私にはその要素の大半が欠落していることを自覚したからであった。
『有名人になる』ことの目標も見切りがついた。音楽、絵画、芸術のいづれの分野においても私には才能が無かったからである。また、学術においても学歴、能力が無く、田中耕三さんのようにノーベル賞を受賞できるような頭脳ではなかった。
最後の『人生の足跡を残す』ことは何とか可能なようであった。民間でありながら、誰もが気づかなかった分野を調査し、それを分析することならまだ私でもできる領域があるようであった。
私がニッチ企業の取材と分析を始めることになった動機は、高校を卒業したときにボンヤリと決めていた目標の一つに合致していたのだった。こんな経過も、私がニッチ企業に没頭させる要因の一つであった。ただ、平凡な取材や分析であっては、世間はその研究を実績としては認めてくれないはずである。食うものを食わなくとも研究に突き進むようでなければ、第三者からは評価を得ることはできない。こうして、自分の生活時間の大半をつぎ込み、ニッチ企業の研究に取り組むことにした。
2005年2月12日
●私の転換期
弁理士の仕事にはそろそろ飽きてきた。
今までとは別の人生を歩みたいと考えていたが、ちょうどその時に私の進路を変える出来事が発生したのだった。
老社長からの解説でニッチ企業という存在に開眼したのだが、十数年前はニッチ企業を分析するまでの気持ちにはならなかった。それよりも私の仕事に追われ、毎日の生活を続けるのが精一杯であり、精神的な余裕が無かったからでもある。
私の職業は、今でもそうであるが、弁理士である。大部分の業務は顧客から依頼された発明を文章化して出願書類にまとめ、特許庁に提出すると共に、その出願が登録されるまでの処理を行うことである。二十年近く前に独立してから、特許事務所を経営し、顧客から提案された発明を文章にまとめる仕事に没頭していた。この作業を、私は『机の上の土方』と読んでいる。朝から夜まで机に向かい、書類を作成するだけの業務である。人と出会って話をすることもなく、黙々と書類の山と戦わなければならないのである。面白くもないし、刺激もない日常であった。こんな生活から離れて、自分の個性を出しながら、世間の人に役立つような仕事に転業できないかな、とボンヤリと考えるようになった。
『机の土方仕事』から、私が離れることになる出来事が発生した。平成9年に、私の主要な顧客の社長が急死したのであった。その会社から依頼されていた仕事が、私の事務所の全仕事量の八十%近くを占めていて、その会社からの仕事で事務所が維持できたようなものであった。また、その会社から依頼される発明は社長だけで創出していたので、社長が亡くなれば私へ依頼される仕事も当然のように無くなってしまう。
このような事態になれば、平凡な特許事務所であれば新たな顧客を探し出し、今までと同じ仕事を続けることを考えるはずである。私はこの事件を好機と考え、それまでの土方仕事から撤退することに決めた。従業員には退職してもらい、事務所の固定費を下げることで細々と生活できる体制にし、以前から考えていたニッチ企業の分析を開始することにした。幸いにも、私は日常生活には金をかけない方針であったので、生活レベルを落とせば今までの売り上げの数分の一であっても事務所を維持することは可能であった。最低の生活を続けながら、面白くもない土方仕事とは別の分野で生きていくができる手段を考えることにした。
こうして、私はニッチ企業、隙間商品の研究と分析に取り組むことになった。
2005年2月12日
2005年02月11日
●零細企業を新たな眼で見ることにした
ニッチ企業に開眼して零細企業を識別することにした
世間にはまだ知られていない優良零細企業があった
老社長からの説明で、世の中には小さくとも高収益商品を製造・販売して健全経営をしている零細企業があることを知らされた。『ニッチ企業』とは、それまでの私の概念には無かった企業の形体であり、私の知らなかった社会があることに気がついた。
無名であっても良い。見すぼらしくとも良い。体裁などは気にしない。だが、社内の内部留保は高く、景気の変動にもびくともせずに運営することができる。何よりも一番良いのは、親会社の意向を聞かなくとも独自の路線で生きていくことができる企業体質を持っているのがニッチ企業である。ある面では零細企業の理想とも言える環境なのではなかろうか。
老社長による開眼で、ニッチ企業というジャンルに目覚めることができた。そのような眼で社会を観察してみると、老社長が経営していた零細企業と同じようなことをしている企業が存在していることが判った。そんな企業とはしょっちゅう出会うことはできないが、偶然に出会った企業がニッチ企業であった。経営者から製造している商品や技術内容などを聞いているうちに、ピンとくるものがあり、『この会社はニッチ企業だな』と勘づくのであった。
老社長と同じ思考で商品を開発し、付加価値を高めて効率の良い経営をしている零細企業があちこちにあることに気がついた。大学の教科書にも出ていないし、経済雑誌にも載っていない独特の企業である。世間では全く未知のジャンルである。いつかはこのようなニッチ企業の実体とその内情を総合的にまとめてみたいものだ、とボンヤリと考えるようになった。
2005年2月10日
2005年02月08日
●隙間商品との出会い
オンボロ会社で製造していたものは
意外と単純な商品だった
健全経営のオンボロ会社では、万引き防止装置を製造していた。デパートやレコード店などの出入口近くの左右にはゲートのような形をした万引き防止装置が設置されている。出入口に設けられているのは、電磁波を発生する装置である。盗難を防止するためのレコードやCDなどには特殊なタグが取り付けてある。電磁波を発生する万引き防止装置とタグにより盗難を防止するのである。タグを付けた商品を持ち出して出入口を通過すると、電磁波発生装置からの電磁波がタグにより反射され、万引き防止装置のブザーを鳴らして万引き行為を知らせることができる。タグを付けた商品を万引き犯が持ち出すのを出入口で捕らまえることができる。書店、レコード店などではお馴染みの機械であり、時々誤作動して万引き犯がいないのみもかかわらず機械が『ピー、ピー』と甲高い警報を出しているのを見かけることがある。
この万引き防止装置の構造はそれ程高度なものではない。出入口の付近にある大きな装置は電磁波を発射するだけであり、構造的にはすこぶる簡単なものである。だが、電磁波発生回路の製造には特殊な技術が必要とされる。東芝や日立などの大企業であれば技術力もあるので製造することは訳ないことである。ただ、大企業が生産するのであるから、月間で最低一万台以上を生産しなければ採算が合わない。万引き防止装置の市場は狭く、全国で販売できるのは月間三十台程度であった(私が老社長と出会った頃)。このため、少量生産が得意な中小企業が製造することになるのだが、電磁波発生回路を製造できるような特殊な技術力を持った中小企業は全国でも限られる。技術の特殊性と市場の狭さの相反する課題があるため、万引き防止装置(というより、電磁波発生装置)はそのオンボロ会社が国内での製造を半ば独占していたのだ。
その当時、万引き防止装置の出荷額は一台三十万円程度であったが、製造原価は三万円位と推測した。毎月三十台の製造であっても、少人数の会社にとっては膨大な利益になる。会社の社屋が薄汚いのは、社会から目立たないようにカモフラージュしていただけのことであった。
老社長は、『私の会社は、量産が得意な大企業では引き受けない特殊な商品を少量だけ製造し、高い付加価値を付けて売るのが方針なんだ。といって、同業者が簡単に真似できるような商品であっては付加価値が無くなる。他の平凡な中小企業では追いつかないような技術力で、簡単には真似できない商品だけを製造するんだ。』と、中小企業がいかに儲けることができるかのカラクリを解説してくれた。老社長と付き合って判ったのは、高付加価値の商品を生産するならば、中小企業であっても莫大な利益を得ることができる分野があることだった。どうりで、この会社は金払いが良いはずであった。
大企業が手を染めたがらない隙間商品こそが中小零細会社の目指す目標であり、妙味がある分野といえる。このような流れで、私はニッチ企業に関心を持つことになった。
2005年2月8日
●オンボロ会社の内情
不思議な会社の内情はこんなことだった
会社は概観ではない
それからも、その会社との付き合いは続いたが、老社長は用心深い性格なのか会社の内情を全く説明してくれることは無かった。二年も顔を合わせていて、私の気心が知れるようになると本音に近い話もしてくれるようになってきた。ある日、老社長は、『去年の年末は大変だったよ。』と、変なことを言い始めた。続いて、『昨年は会社の黒字を隠すために苦労したんだ。不要な消耗品などを大量に買い込み、何とか帳簿を赤字に落とし込んだよ。』と話を続けたのだった。
通常、どこの零細企業の社長でも『年末は、資金繰りをつけるのが苦しかった』と言うはずなのだが、この老社長は逆の話をしたのだった。このオンボロ会社は年末になって運転資金を導入するのに苦労したのではなく、黒字を隠すのに困っていたのだった。この会社では、毎年の決算をほんの少しだけ赤字として帳簿を工作していたのだった。本来は収益が出ていて黒字になるはずなのだが、チョッピリだけ赤字として法人税を払うのを逃れていたのだった。
それから話が続き、『特許出願の費用は、必要経費として帳簿で処理するのに全く都合の良いものだ。』と述べられた。私にアメリカへの特許出願を依頼したのは、黒字を隠すための節税対策のためだった。特許出願にかかる費用は研究開発費の一部であり、全額年度内に一括して償却することができる。同時に、外国特許出願の費用は金額が大きいため、黒字隠しには好都合である。この説明で、私に高額なアメリカへの出願を依頼した理由が判ったのだった。
老社長の経営する零細会社は、建物は見すぼらしいのだが、それは世を忍ぶ仮の姿であった。経営内容は毎年黒字を隠さなければならない程、頭に『超』がつく優良企業であったのだ。
●ニッチ企業と出会う
その老社長とであったのは十数年前であった。
しかし、そのときの印象は今でも鮮明に記憶している。
私が或るニッチ企業(或いはニッチ企業主)と出会ったのは、十数年前の夏のことだった。知人を介して零細企業の社長を紹介され、私の零細事務所を訪れてくれた。その時にすでに70歳を越えていた老社長であり、それ程強烈な印象を受けるような人柄では無かった。その時は、特許に関連した相談であったような記憶がある。
その後、老社長の会社を訪問して、その規模と内情を知ることができた。会社は東京の大田区に所在しており、社屋は築三十年以上も経過した木造二階建てであり、借地であった。社屋の側を幹線道路が走っているため、排気ガスで建物全体が煤けて見すぼらしい。機械加工ではなく電気部品を製造しているため、工作機械の切削油で壁などが汚れたような町工場とは違った雰囲気であるが、ささやかな建物であった。どにでもあるような建物であり、気がつかなければ見過ごしてしまう。一階が老社長夫婦の住居で、二階はは擦り減った板張りの二十畳ぐらいの広さの作業場があった。社員は、男性が二人、パートのおばさんが数名で編成されていた。
老社長からは時々特許出願の依頼を受け、それなりに仕事を処理していった。どの商売でも、新しい顧客と取り引きする時には、顧客の支払い能力、資産状況を把握しておかなければならない。新しく取り引きを始めたが、注文だけしておいて逃げてしまう会社もときにはあるからだ。オンボロの社屋を見てから、『こんな会社では確実に支払ってくれるかな。』と、不安であった。そのような不安は危惧であり、その零細企業からの支払いは極めて素早かった。通常の会社なら、請求してから入金までは早くて1か月後、遅ければ3か月後である。その会社では、請求したその月の月末に必ず入金があった。また、見かけとは裏腹に、私の請求額を決して値切ろうとはせず、気前の良いものだった。
そんな不思議な会社と取り引きを始めてから半年位経った或る日、社長から、『アメリカに特許出願をしてくれないか。』と、依頼を受けた。アメリカへの特許出願では、翻訳代、米人の弁理士への支払いなどでかなり高額となる。こんな小さな企業では支払いが大変なはずである。また、零細企業であるその会社には商品を輸出するような計画は無く、アメリカまで特許を出願する必要性がないと思われた。
私は老社長に、『アメリカに特許出願するのはお止しなさい。』と忠告した。だが、社長は、『ぜひ特許出願してくれ。』と強固に依頼され、そのまま押し切られてアメリカに特許出願することにした。外国特許出願の経費は百万円以上になったが、この費用もそれまで通りに一ヶ月もしない内に全額支払ってくれた。社屋、設備などが見すぼらしい零細企業が外国に特許出願するのは珍しいことであり、支払いもキッチリとしてくれたので、私にとっては不可解な経験となった。