2006年03月14日
●連載第12回


パーティではおなじみのビンゴカードです。
ありふれているように思われるのですが、一社がほぼ独占して製造しています。
● パーティを盛り上げる用品
結婚式、同窓会、誕生会などのパーティでは、ビンゴゲームが行われることが多くなった。乱数の数字を縦横に印刷したカードを使って遊ぶもので、抽選機から取り出したボールの数字とカードに印刷された数字が一致して、当たりが縦横斜めに一列に並ぶと勝つゲームである。手軽に大人数で遊ぶことができ、会場を盛り上げることができるためパーティでは必需品となっている。
市川市にあるハナヤマ(小林邦巌社長)はビンゴカードの生産で市場をほぼ独占している企業である。
● 会社の承継
ハナヤマは昭和八年に室内ゲーム用品のメーカーとして産声をあげた歴史のある企業で、戦後はバンカース、モノポリー、人生ゲームなどを発売してきた。社名には馴染みが薄いが、子供の頃に六角形の盤にプラスチックの駒を差し込むダイヤモンドゲームで遊ばれた記憶のある方は多いのではなかろうか。昭和三十年代にダイヤモンドゲームを大ヒットさせたのがハナヤマである。一時は関西の任天堂と並びゲーム用品では有名であったが、業績が悪化したため身売りされることになった。以前からハナヤマに印刷の下請けで出入りしていた現社長の小林氏が、昭和四十七年に商権と人材を引き取ることになった。小林氏は既に陽光社という印刷会社を経営しており、二つの会社を同時に運営することになった。
● ビンゴとの出会い
引き受けた赤字会社の再建が一段落した小林社長は、次にヒットする商品を開発するために海外のゲームの情報を集めることにした。これは海外の商品を真似するのではなく、新商品の開拓であった。ゲーム用品業界では自社で商品開発することもあるが、他社が開発したゲームの版権やゲーム作家の著作物を買い取り、独占的に販売することは慣習となっているからである。
昭和五十三年頃、或る商社から「香港でビンゴゲームという玩具が流行っている」という話を聞きつけた。それまで国内には無かったゲームであり、小林社長は香港まで赴いて調査した。現地で見たビンゴゲームのルールは現在と同じであったが、ゲームで使用する道具が全く違っていた。プラスチックの板に数字を印刷し、スライドするカバーで抽選された数字を覆っていくもので、パターン数も少ないものであったがこれから日本でブームになると見込まれた。
帰国してから日本の実情に合わせて改良することにした。素材を厚紙とし、パーティなどでグラスを持ちながら空いてる他の手で遊べることを考慮して、縦横十センチ程の大きさとした。数字の配置は縦横五列とし、数字を印刷した部分を逆U字形に型抜きすることにした。抽選した数字と一致した数字の部分を曲げ、当たり数字として記憶させるためである。極めてシンプルな形状で、発売から二十年以上も経った現在もほぼ同じ構造となっている。手のひらの上で遊ぶゲームであることから、終極的にはこの大きさと構造に集約されるのではなかろうか。
こうして新商品として市場に販売することになったが、毎年売り上げが伸び、十年程で現在の売り上げとほぼ同じ水準に達成させることができた。特に広告を出して宣伝することもしなかったが順調に成長していった。全国に強力な販路を持つ玩具問屋と結びついたことも要因であったが、時代が後押ししてくれた幸運も大きかった。その頃からベビーブーマーによる結婚式が増加し、式場でカードが使用されて口コミで広がったのである。また、バブル期になりつつある時で、企業では盛んにパーティを催すようになり、その会場でも使用されたからだ。
● 成功した理由
現在、ハナヤマはビンゴカードの市場で八十%近くを占めているが、これは先発社としてのメリット以外に複数の要因があった。
カードの印刷は同じ社屋にある関連の陽光社で行っているが、陽光社の業務は厚紙の印刷と型抜きに特化している。この業務は、カード製造の作業と完全に一致しているため製造コストを合理化できた。また、早い時期にカードのパターンを増やしたことも他社が追従できない原因である。カードには縦横に区切られた二十五の枡があり、それらの升に一から七十五までの数字を乱数で配置していくのだが、大人数でゲームをしたとき同じパターンのカードが配られると複数の勝者が発生してしまう。このようなミスを避けるにはカードのパターン数を増やさなければならない。発売初期は三百パターンであったため、三百人のゲームが限度であった。現在は六千通りのパターンでカードを印刷しており、六千人が一度にゲームすることができる(一時は一万二千種類のパターンを用意したが、在庫管理が大変なので減少させた)。これだけのパターンを用意するには六千種類の印刷原板が必要となるが、ハナヤマでは早い時期に原板を作成してしまった。これから他社が同じ種類のパターンの原板を用意するとなれば膨大な先行投資が必要となり、新しく参入してもメリットがないからである。
肝心なことであるが、ビンゴカードは一回のゲームでカードを折り曲げるため使い捨てである。パーティでゲームが行われたならば確実に消費され、毎年利益が出るドル箱の商品である。ハナヤマは各種のゲーム用品を販売していて、ビンゴカードは商品群の一つでしかない。しかし、他の商品は木質や金属製であり、数カ月から数年は保有されるものであり、毎年のように確実な利益が生じるものではない。ハナヤマにとってはビンゴカードは恒久的に利益を確保できる商品なのである。
● これからの展開
ビンゴゲームはルールが単純なため老若男女を問わず参加でき、安価に大人数で遊べることから根強い人気がある。だが、パーティや催物会場でしか使われない特殊性から、景気の波に左右される欠点がある。また、中国製の安価なカードが百円ショップなどで目立つようになった。今後も売上高を確保するとなれば、市場でのシェアーを高水準に維持しなければならない。このため、ハナヤマではカードの差別化を図ることにした。ディズニーなどのキャラクターを印刷したり、点字を印刷したりして、顧客にカードの選択範囲を広げ、市場でのシェアーを落とさない努力している。
2006年02月15日
●連載11回


故人の遺影を飾るための大理石のスタンドです。
写真屋では入手できない写真スタンドですが、葬儀の後では必要となるようです。
● 仏具に特定した写真立て
元気な人もいつかはお亡くなりになり、その時には人生最後の締めくくりとして葬儀が執り行われる。年間の死亡者数は約九十八万人であることから、ほぼその人数と同じ数の葬儀があると考えられる。葬儀の儀式には棺桶、骨壺、花輪、位牌などの特殊な用具や消耗品が必要となる。これらは昔から専門の製造業者がいて、葬儀社に供給している。喪家は儀式の執行と同時に、これらの葬祭用品を葬儀社から購入するのが通例である。
葬儀用品は宗教や慣習がからんでいるので、商品群は昔から大きな変化はない。そんな中で、矢板市にあるワイ・ジー・シー(山口雄三社長)は、故人の写真を飾るための遺影スタンド「しのぶ」という目新しい商品を葬儀社に供給している国内で唯一の会社である。
● レッスンプロからの転向
山口社長はゴルフのレッスンプロであり、現在もゴルフ教室を運営している。畑違いの商売に乗り出した経緯は、昭和六十年頃に起きたプロゴルファー協会の内紛であった。協会は主導権を巡り大きく揉めており、山口社長は協会から離脱して独自のプロ集団を創設したくなった。そのためには、商品を販売して資金を捻出することに決めた。
その頃、長兄が勤める会社では紫外線硬化樹脂を開発しており、新しい販路を求めていた。紫外線硬化樹脂とは、紫外線を照射すると液体の状態から硬化する特性を持つもので、現在は製版材料や半導体製造に多用されている。山口社長は、結婚式の記念品に応用できないかと考えた。新郎新婦の写真を皿に置き、表面に樹脂を塗布して硬化させれば表面が保護された絵皿になる。試作品を地元の結婚式場に持ち込んだところ、担当者から「これは慶事よりも仏具として売れるものではないか」と諭された。これが遺影スタンドを開発するキッカケとなった。
● 製品の開発と販売
仏具としてのデザインを決めるため、最初は木工屋に頼んで丸、三角、四角、六角などの五十種類ほどの木製見本を制作した。この見本を百人近くの人に見せ、どのデザインが好まれるかリサーチしたところ、ほぼ全員が円形を選んだ。しかも、直径が十二センチのものが一番集中して選ばれた。人間の心理では、この大きさの円形に写真を収めると違和感を持たないようであり、これより少しでも大きかったり小さかったりするだけで全く売れなくなるようだ。発売時から現在まで、この大きさとデザインを変える必要はなかった。
スタンドの豪華さと重厚さを演出するため、素材は大理石に決めた。大理石の加工で有名な台湾の花蓮市に飛び、コネは無かったが信頼できる会社を見つけることにした。それなりの技術を持つ会社を見つけ、先ず二百個を制作して著名人などに無償で配付したところ、まずまずの反応であった。続いて二万個を追加注文したのだが、販売できるような品質の商品は三千個もなかった。遺影スタンドは写真を収める皿と、皿を支える台座から構成され、台座には皿を嵌め込むための溝が掘られている。現地の会社の加工能力では溝を掘る精度が悪く、皿をピッタリと支えることができなかったのである。山口社長が何度も現地に足を運び、品質を向上させるように指導し、最終的には専用の溝掘り機を開発したため、これ以降は均質な商品を量産できる体制になった。
平成元年から、遺影スタンドと紫外線照射機をセットにして販売を始めたのだが全く売れなかった。照射機が五十万円と高く、小さな葬儀社にとっては大きな負担であったからである。照射機を自作するなどを試みたが、思った程安価にはならなかった。二年後に、遺影をラミネート加工して固定する方法を思いついた。遺影の表裏に透明なフィルムを密着してラミネートし、カッターで円形に切断すると遺影はサンドイッチ状に保持される。その裏面に両面テープを接着して皿に貼り付けて固定する。遺影の表面はフィルムで保護されているので、傷が付いたり変色することはない。必要な道具はフィルムを加熱するラミネーターと円形カッターだけで、最初に投資する資本は二万円以下となり、どの葬儀社も手を出し易くなった。
最初は代理店に依頼したり、業界の展示会に出店して宣伝したのだがサッパリと売れなかった。平成三年から一時レッスンプロの仕事を止め、遺影スタンドに専念することにした。背水の陣で山口社長自身が全国の葬儀社を廻る営業を続けた結果、業界トップの愛知葬祭と大阪互助会に納品するようになってからは順調となり、現在は百社以上の顧客を掴むことができた。発売してから十数年で年間出荷数は二万枚を越えたが、卸価格は一個七千九百円であるが輸入価格は千数百円と推定される。遺影スタンドが単品の商品であるが、小さな会社にとって大きな柱に育った。
● 仏具が売れる理由
現在、「しのぶ」の定価は三万円であるが、葬儀社が喪家に販売する実勢価格は二万五千円前後である。写真を加工するための手間がかかるが、遺影を貼っただけの小さな大理石の写真スタンドがなぜこの価格で売れるのだろうか。それは、故人を偲ぶことができる仏具が他に無いことが要因である。葬儀が終わった喪家には、祭壇に飾った故人の顔をA4程度の大きさに引き伸ばした遺影額が残る。遺影額は喪家の鴨居に飾るが一枚だけであり、兄弟などには故人の遺影という思い出は渡らない。葬儀に参列した関係者の心には、手で持ち運べることができ、故人とのつながりのある何らかの物が欲しくなる。
こうした遺族の心理から、葬儀の前後に葬儀社が遺影スタンドを販売すると、親戚縁者から最低数枚の注文を受けることができるらしい。葬儀社にとって、遺影スタンドの販売は今までになかった需要となり、葬儀費用の他の新たな収益源にもなった。このため、遺影スタンドは営業力を持ち、業務の近代化を進める葬儀社から導入されていった。遺影スタンドの販売数は伸びたが、それでも全国の葬儀数に比べたら僅かであり、これからも伸びると予想される。
● これからの展開
葬儀業界はまだ古い体質があり、新しいシステムや外部との交流を導入しない閉鎖的な業界といわれている。近代的な経営を取り入れている葬儀社もあるが、全体としては少数派であり、新しい商品企画が育たない体質がある。山口社長が業界に参入してから二十年近く経ち、業界の構造を熟知した。これからは、葬儀社が必要とする新しい葬祭用の商材を開発する計画である。
2006年01月25日
●連載第10回


どこのスイミングプールの脱衣場でもお見かけする機械です。
オンリーワン商品であり、脱水性能は抜群です。
● スイミングプールの必需品
公営私営を問わず、プールのあるスポーツクラブが増えきた。水泳は全身運動であることから、老若男女を問わず健康増進のための最適なスポーツであるからだ。スポーツクラブの脱衣所には洗濯機のような水着専用の脱水機が据えられていることが多い。濡れた水着を入れて数秒も回すと、水気が切れてそのまま持ち帰ることができて便利である。
どこのクラブでも見かけられてありふれているように思われるが、この水着脱水機は東京葛飾区のハヤブサ技研(浜義人社長)が市場をほぼ独占しているオンリーワン商品である。
● 経理マンからの独立
浜社長は会計事務所に所属する経理マンで、赤字会社に派遣されて、業績を建て直す仕事に携わっていた。二百社以上の企業の面倒を見た後、請われて文具メーカーなど十数社を歴任して企業経営を体験した。その後、自分で経営を行ってみたくなり、昭和六十二年に共同経営という形で独立した。最初は医療器具の開発を企てたのだが、思ったように業績が上がらず、一年足らずで資本を食い潰してしまった。このため、共同経営を解消し、自社商品開発は一時中止することになった。
暫くは他社の販売代理をして、商品販売での口銭で会社を運営すうことにした。ただ、単純に販売するだけではなく、利益率を高めるために全く新しいマーケットを開拓することも企んだ。その中で、スポーツクラブに体調管理のために血圧計を売り込むことを考えた。血圧計がスポーツクラブに常備されていない時代であったため、面白いように売れ、三年程で三千個所に納入することができた。これは全国のマーケットの半分程になり、これがスポーツクラブ業界と関わりを持つきっかけとなった。
そんなとき、スポーツ業界の関係者から、「顧客がプールで泳いだ後、水を吸った水着の処置に困っている。水が垂れて重たく、持ち歩き難い。」と聞かされ、「簡単に脱水できる水着専用の脱水機を開発できないか。」と依頼された。
● 製品の開発と販売
最初、浜社長は水着の脱水を家庭用洗濯機の脱水機と同じ技術レベルと考えていて、一カ月もあれば商品化できると甘くみたがのだが、簡単にいかないものだった。水着用脱水機はモーター、ブレーキ、脱水籠から構成されていて、円筒形をした脱水籠をモーターで回転させ、ブレーキでその回転を停止させるものである。極めて単純な構造であり、家庭用のものと殆ど変わらないが、水着専用にするためには多くの問題があった。
まず、脱水籠を高速で回転するモーターが必要となった。家庭用では毎分数百回転のモーターで十分であるが、これでは水着の水分の十~二十%を脱水するだけである。使った水着をそのまま持ち帰るには九十%以上を脱水する必要があり、毎分三千回転以上で回転するモーターが求められた。以前に関係した企業が高速回転のモーターを開発していたため、そのモーターを転用することにした。また、脱水が終わった水着は利用者が脱水籠から取り出すため、脱水籠に手が巻き込まれる事故も予想される。確実に脱水籠の回転を停止しなければならず、蓋を開けてから四回転以下で停止させることが要求された。極めて高速で回転している脱水籠を急停止させるには、高度な技術が必要となった。蓋の開閉には精度の高いセンサーを使い、ブレーキには産業用ロボット用の電磁ブレーキを使用することで達成できた。
だが、開発で一番の障害となったのは、動作音が静粛でなければならないことであった。家庭で脱水機を使用しているときに、回転籠の中で洗濯物が偏っているとガタガタと大きな音がする体験をされた方は多いと思う。だが、スポーツクラブで脱水機が騒音を発生するのはご法度であり、どんな時でも静かに動作する能力が求められた。騒音が発生する原因は振動である。回転する機械であれば、重心が多少偏っただけで振動を発生する宿命がある。振動を極力少なくするためには、部品を社内で再加工することで解決できた。ハヤブサ技研では各部品は外注に依頼して製造し、社内で組み立てている。それらの部品には精度が零ということはあり得ず、多少の誤差が必ず発生する。納品された部品の一個一個の誤差を測定し、手作業で加工しなおして修正する。それでも誤差は残っているため、部品を組み合わせる時に工夫するのである。すなわち、+側に誤差がある部品には-側に誤差のある部品を組み合わせ、両者で補完することで誤差を無くさせた。
こうして、十八回もの手直しを重ね、三年かかって平成五年に実用機が完成できた。その後、現在までに三百個所以上の細かい改良を重ね、さらに技術の完成度を高めている。このような細かな加工と組み合わせによる振動発生を防ぐ技術はノウハウであり、これが他社が追いつけない独自の技術であり、業界を独占できる要因となった。
● 皆が欲しかった機械
完成した水着専用脱水機の販売にはさほど困らなかった。すでに血圧計の販売で多くのスポーツクラブが得意先であり、営業先を把握していたからだ。それよりも、利用客の要求が販売に大きな後押しとなった。脱水機をスポーツクラブに一週間程貸し出すと、機械を撤去した後で必ず注文があった。機械を試用した利用客からスポーツクラブに、「あの便利な機械をなぜ設置しないのか」とう苦情が溢れたからである。どの利用客も濡れた水着の処置に困っており、便利な脱水機の出現を待っていたのであった。こうして、発売から十年で八千台を売り上げ、全国の殆どのスポーツクラブに納品することができた。
前述したように、水着専用脱水機は振動を防止するために部品を巧妙に組み合わせて製造しており、一品生産に近いものである。故障したときは自社でしか修理できない。故障すると代替え品を送り、自社工場で修理している。他社が参入することができないノウハウの技術であるが、これが販売拡大でのネックとなっている。外国のスポーツクラブも同じように水着の処置に困っているようで、輸出の話がしばしばある。しかし、アフターサービスでは国内と同じような対処ができず、当面は輸出はしない方針である。
● これからの展開
脱水籠を高速で回転させて水切りする機械は珍しいもので、他の産業界からも注目されている。例えば、惣菜屋などでは野菜サラダから水気を切るため、おしぼり屋からはタオルから水分を脱水するために利用したい、という注文がある。これから、ハヤブサ技研では回転する籠の構造を変え、多方面に応用できる脱水機を製造していく予定である。
2006年1月25日
2005年12月14日
●連載第9回


革を使ったキーホルダーで、立体的なのが特徴です。
純日本製にこだわった作品で、細かな細工があります。
● 革は人類最初の素材
原始時代に人類が身に付けた衣類の素材は革であった。布などを身にまとうようになったのはずっと後年のことであり、人と革は数千年の長い付き合いがある。なめした革は丈夫でしなやかであり、加工が比較的簡単なことから、合成繊維であふれた現在でも各種の製品に利用されている。
革を素材にしたアクセサリーも製造されており、どこの国でも地方色のある商品があって珍しいものではないが、それらは平面的なものである。船橋市にあるバンカクラフト(田中真知子社長)は、立体的な革のアクセサリー類を製造している国内で唯一の会社である。
● モノ造りの血筋
社内で商品企画とデザインを担当している田中滋朗会長(社長の夫)は親子三代にわたるモノ造りの家系である。祖父は明治期に浅草で小間物問屋を経営していたが、フランス製の造花に関心を持ち、製造方法を研究していた。苦心の末に髪飾りやブローチの量産に成功し、当時は珍しい洋風であったため爆発的に売れた。明治大正期には三越にも納入し、アクセサリーの萬家本舗として一世を風靡していた。大正末期に祖父が亡くなり、経営が父親に譲られたが、戦災で工場などを消失したため暫くは休止した後、昭和二十五年頃から製造を再開した。父親も研究熱心で、毛糸を花弁のように配置した向日葵のブローチを開発した。新鮮なデザインであったため、映画に出演した女優が身に付けたこともあり、古い映画雑誌などで見かけることもできるという。
昭和三十五年に大学を卒業した会長はサラリーマンになろうかと考えたが、結局父親の家業を継ぐことにした。先祖からの職人の血筋が流れていて、モノ造りには人一倍の関心があったからだ。だが、父親と同じ商品を製作したくない、という気概は持っていた。家業を手伝いながら、自分自身のオリジナルの商品を捜す時期が続くことになった。
● 製品の開発
昭和四十年頃にルームアクセサリーの売れ行きが伸び、少し実用的な商品が売りやすい風潮にあることに気がついた。その頃出回り始めたジーンズの布地を厚紙に貼り、レターボックス、小物入れなどを開発した。ウエスタン映画が流行りはじめた頃であり、西部劇の主人公がはくジーンズと同じ色であることから大ヒットした。昭和四十六年から数年間はヨーロッパにも輸出することができ、年商は一億円を越した。この商品を製造していた時、商品の一部にアクセントとして革の部材を使うことがあり、これが会長が革と出会ったキッカケとなった。
革素材の業者から加工方法の知識を入手し、昭和五十五年から小銭入れ、ブックカバー、靴べら、バッグなどを製造した。素人による製作であるが、雑な作りが素朴さを感じさせ、そこそこは販売できた。だが、数年後には限界を感じて方向転換を図ることにした。革細工には歴史も技術もあり、バッグや靴などの実用品の業界には優れた企業が多く、新参者にはとても敵わなかったからである。企画対象を非実用的な商品に絞り、かつ、使っていて楽しいものをに限ることにした。前後して、会長は革を立体的に加工する技術を編み出した。製造ノウハウは秘密であるが、革を乾燥させて立体的な形状に固化させることが特色である。この技法により革で細かい細工が可能となり、アクセサリーの製造には最適であった。
先ず、スルメや鰺の形をしたキーホルダーを試作し、みやげ物問屋を通じて全国の観光地で販売することにした。立体形の革製品は珍しいので評判が良く、平成元年からは魚シリーズとして三十種類以上をデザインし、年間二百万個を量産するまでとなり、年商は三億六千万円にもなった。
● 直販の模索
ブームは数年間続いたが、会長は問屋との付き合いを煩わしく感じるようになった。問屋は売上げを伸ばすために大量の商品を発注し、全国で一斉に販売するためブームが去るのが早くなる。また、売れ筋であれば問屋が他社に類似品を製造させる悪習慣もあった。高度な技術で革製品を製造していきたい会長の意気込みとは逆であった。悪しきサイクルから脱却するため、問屋とは絶縁して小売店に直接販売する方針にした。
小売店の開拓では平成八年から見本市を利用し、会場で小売店にカタログを渡して通信販売に徹することにした。取引の条件は極めて単純で、卸値は一律に定価の六十60%とし、返品は認めないとした。また、大量に発注されても注文を断ることにした。生産能力が小さいため、良質の商品を細く長く販売していくために必要な措置である。
現在の商品群はキーホルダー、携帯ストラップ、マスコットなどの小物が主流で、単価は八百円から千五百円程度とプラスチックの量産品に比べると高い。しかし、安価なアクセサリーを販売する店とは一線を画した、高級指向の小売店では納得できる価格である。それぞれの商品群には、動物、魚、干支、乗物などをデザインしてシリーズ化し、全部で八百種類以上を揃えるまでになった。これらの革製品を総括して「革物語」と名付け、オリジナルブランドに育て上げることができた。
● これからの展開
アクセサリーという非実用の分野ではブームの波が激しいが、会長自身は四十年近くも資金や仕事で困った体験をしたことがないという。その秘訣は従業員を五名以下とし、パートや内職を活用して会社を大きくしないことである。仕事が少なくなったときは内職への外注を減らし、仕事量の調整を図るようにした。同時に、ブームが去って売上が落ち込んで時間の余裕ができたなら、会長は次に売れる商品の開発に没頭することにした。アイデアが勝負のアクセサリー業界で長く経営できたのは、ブームの波を利用し、早い時期に次の波に乗るための努力をしてきたからである。
また、会長は中国から輸入される安価なアクセサリーを恐れていない。手先の器用な日本人が作るアクセサリーには可愛らしい雰囲気があり、それは外国製では真似することができない。高級路線を維持した国産品にこだわることで、これからもバンカクラフトは継続することであろう。
2005年11月12日
●連載第8回


プロ用の金槌の専業メーカーです。
安い中国製に対抗して高級品を狙っています。
● 金槌は道具箱の必需品
住宅の建築や木製品の製作で、材木と材木を結合するためには釘が使われる。釘を打つためには金槌が必要となり、職人の道具箱には鋸、鉋と共に必ず金槌が収められている。(職人が使うものは玄能と呼ばれるが、ここでは金槌と呼ぶことにする)
金槌は円筒形の鋼(頭と呼ぶ)に四角い穴を明け、この穴に樫材の柄を嵌め込んだ単純な構造である。頭の製造は比較的単純で、定寸に切断した丸鋼を加熱してハンマーで叩いて鍛造し、タガネで中央に四角い穴を開ける。この頭を加熱して油などで急冷して焼き入れすれば完成する。この工程は江戸時代から三十年程前まで大きく変わっておらず、昔は全国各地に専門の鍛冶屋がいて、地元の注文に応じて金槌を製造していた。昭和四十年頃には一人親方の零細な工場を含めて全国に三百社が存在したようで、三条市にも八十社ほどが活動していたという。
だが、東南アジアから大量の金槌が輸入され、アマチュア向けにホームセンターで安価に売られるようになってきたことから国内のメーカーは激減した。現在、国内で金槌を製造している大手メーカーは三社だけである。その一社が三条市にある須佐製作所(須佐武志社長)である。(現在も手作りの職人芸で製造している業者は十社程あるらしいが、販売額は微小)
須佐製作所では大工などの職人を顧客対象とし、和式と呼ばれる金槌の市場占有率では国内の七十%のシェアを誇っている。なお、同業者は東大阪市と三木市にそれぞれ一社づつ存在するが、これらは頭と柄が金属でできた洋式と呼ばれる製品が主流であり、輸出に力を入れているため市場では競合しない。
● 職人から商人への転換
須佐製作所は、昭和十年に初代社長の須佐作太郎が創業し、兄弟で工場を運営していた。戦時中は一時金槌の製造を休止していたが、戦後すぐに復興した。しかし、昭和二十一年に作太郎は工場設備、経営権の全てを兄弟に譲り渡し、一から出直すことにした。これは経営の方針を根本的に変え、金槌職人からの脱皮であった。金槌の製造では、技術を覚えていれば工場にはさほど大きな機械は不要であり、投下資本は僅かである。従業員も少数ですみ、極端なことを言えば、夫婦二人でも製造することができる。製造した金槌は地場の問屋に納品し、月末に清算するのが習慣であった。この経営は堅実なのだが、地場だけのマーケットであるため成長が見込めない。また、当時の経営者は、日銭を稼ぐことができれば十分だ、という保守的な考えがあった。
作太郎は東京、大阪の問屋を回り、県外に新たな商圏を開拓して三条から出荷することにした。戦後の復興期であるため、都会では大工道具の金槌が飛ぶように売れ、思惑が当たった。販路が広がっていったが、営業の拡大に比例して頭の種類を多くする必要がでた。現在でもそうであるが、金槌の頭は全国共通ではなく、北海道型、関東型、関西型、岩国型などの地方によって形が異なっている。地方文化の相違により頭は地方ごとに独特の形があり、親方が使っていた形が弟子に受け継がれているからである。また、瓦、タイル、型枠などの職種によっても重量、寸法が違うものであった。全国の職人に利用してもらうために、各地の特徴にあわせて多数種類の頭を製造していくことになった。この種類の豊富さが全国の職人を制覇する要因となった。地元の同業者が先細りになっていくのに比べ、須佐製作所の販路は全国に広がっていった。
● 技術の革新
初代社長は販路を全国に求めたが、二代目社長となった息子の須佐修身は量産のための新技術の導入を図った。それまでの金槌の製造では職人による手作業に頼っていて、一人が一日五十個程度を生産するのが限度であり、手作りのため製品にバラツキが出やすいものであった。昭和四十七年から型打ち鍛造を導入し、量産化と均質化を図ることにした。型打ち鍛造では、金槌の形状をした型の中に加熱した丸鋼を入れ、油圧プレス機で打ち込むことで外形を形成すると同時に柄を入れる穴を開口することができる。その頃の三条市には型打ち鍛造の技術が無く、技術を習得するまでに二、三年の年月がかかった。次いで、昭和五十一年からは高周波加熱による焼き入れを開始した。職人の勘に頼る焼き入れでは製品にムラが出るが、この方法では頭の硬度を一定にして品質を高めることができた。
三代目社長の須佐武志(修身の弟)は商品の企画化に取り組んだ。あまり知られていないが、昭和四十八年頃までは職人向けの金槌は頭だけが販売されていた。職人は柄を自作し、頭に嵌め込んで自分好みの金槌に仕立てていた。江戸時代からの習慣であったが、時代の趨勢で職人も直ぐに使える完成品を求める傾向が強くなった。木製の柄は使う職人の好み、使用目的によって長さ、太さが微妙に異なっている。武志は全国の問屋に営業にでかけながら、その地方の職人が好む柄の情報を集めることにし、各地の職人が使っている多種類の柄を揃えることにした。現在では、頭の種類は百種類以上、柄も数十種類となり、頭と柄の組合せでは数百種類の金槌を用意できるまでになった。これだけの多種類の金槌を在庫しているのは須佐製作所だけであり、どんな職人からの依頼にも対応できる体制が強みとなった。
小さな企業が金槌だけを七十年も製造して続けることができたのは驚異的なことである。同業者が雲散していく中で須佐製作所が生き残ることができたのは、親子二代にわたる「職人気質という旧い体質からの脱皮」と「技術の近代化」という目的があったからである。
● これからの展開
近年はプレカット工法やツーバイフォー工法などの新しい建築工法が盛んになり、現場で釘を使うことが少なくなってきた。今後は金槌の販売は減ると予想されるため、須佐製作所では金槌の製造技術を転用した園芸道具や佐官用具の開発を行い、商品群を増やしていく予定である。また、「王将の金槌」を指名買いして貰えるように、ブランドの知名度を上げる計画である。
2005年10月13日
●連載第7回


日本一の金屏風を製造している零細企業です。
古くさい商品と思われてますが「屏風の浅井」は見事に生き返させました。
● 祝い事の場に欠かせない金屏風
結婚式、襲名披露、叙勲報告などの、『和』の祝い事には必ず金屏風が用意されている。屏風が明るく反射するため、主賓を華やかに見せることができるからである。また、会場での主賓の席を目立たせる効果もあるのだろう。結婚式場、ホテルなどの宴会場では、金屏風は必需品である。
名古屋に所在する浅井(浅井貴之社長)は、近代的な手法で金屏風を製造し、業界でトップになった企業である。
● 歴史のある古い会社
現在は法人化されている浅井には百二十年余の歴史があり、愛知県では戦前から『屏風の浅井』として有名な老舗である。初代が安政年間に金銀細工店を創業し、明治期に金銀細工から金箔製造に転業し、さらに、金屏風の製造に転業した。貴金属に関連した業種であるので、転業が容易であったのであろう。大正期になると日本画、掛軸、額縁も取り扱うようになったが、屏風の製造過程で表具師と交流することがあったからである。明治、大正と時代が変わるにつれ、本業に接近した他の事業に上手く鞍替えすることができたのが事業を長続きできた要因であろう。
昭和の始めになると、三代目は職人を分業化させて量産し、価格を引き下げることに成功した。松阪屋百貨店に納品し、同時に、月賦販売も行いって当時としては革新的な販売を実行した。浅井が金屏風の販売に力を入れたのは、地元の風習が影響していたようだ。戦前の愛知県では嫁入り道具に金屏風を加えることが多く、他の地域に比べて需要が大きかったからだ。
● 新型金屏風の開発
伝統的な金屏風は、建具屋が杉や檜の木枠の内部に枡目のように縦横の桟(さん)を入れた格子を製作する。この格子の表面に表具師が下張りと上張りをし、表面に金箔を貼って完成する。襖の製造と似ていて、昔はどこの地方でも、地元の表具師が注文によって生産していたらしい。このような本物の金箔を使用する金屏風は「本金」と呼ばれ、六尺六曲と呼ばれる標準品で三百万円以上もする。現在でも製造されてはいるが、工芸品の領域であって高価であるため、滅多に注文されることはない。
戦後になると、金箔の代わりに真鍮の箔を貼り付けた「洋金」という安価な金屏風が出回るようになった。平成期の初めからは、金色の塗料を印刷した色紙を使用してさらに安価な「金紙」と呼ばれる金屏風も製造されるようになった。これら三種類の金屏風は表面の素材が相違するが反射率は同じようなもので、遠くから見たら素人では区別することは難しい。現在は「金紙」の屏風が主流となっている。
さて、国内の生活様式が洋式化するに伴い、業界全体での金屏風は売れ行きが年々落ち込むようになった。受注生産で細々と製造していた個人の表具師は、とっくの昔に生産を止め、金屏風を生産している企業は浅井を含めて全国で五社にまで減ってしまった。
業界が落ち込んでいった頃に、会社員をしていた五代目の現社長が親の仕事を継ぐ時期にさしかかってきた。商品の特殊性から売り上げがジリ貧となっていくのは止めようがなく、今までとは違った経営戦略が求められた。この頃、同業者の中に、「金紙」を量産して安価に販売し、業績を大きく伸ばしている企業があることを知った。業界は縮小していくが、良質な商品であれば同業者のシェアを奪い、十分に採算が取れるという実証であった。この企業の戦略がヒントとなり、衰退していく業界であっても、業界の中で日本一となればそれだけの利益を上げることができるはず、と現社長は確信した。
すでに先行している同業者に打ち勝つには、その企業の商品よりも魅力がなければ売れない。このため、軽くて丈夫で、定価を十万円以下にして顧客が買い易い金屏風が目標となり、従来とは違った発想で製造することにした。伝統的な木や紙を使わず、樹脂製のボードの周囲を黒色のアルミの枠で囲い、ボードの表面に金紙を貼り付けた構造とした。外観は従来の金屏風と全く同じであり、量産が可能となった。だが、新素材を使用したことから思わぬ問題点が出た。ボードと金紙の吸湿度が違うため、湿度が変わると屏風全体が反ってしまう現象が発生した。また、アルミ製の枠は柔らかいために、枠の角が欠け易い問題もあった。試作品を出荷してみると半分以上が返品され、返品の処分に困ったこともあった。外枠の構造を変え、ボードに向く新素材を見つけては試作を繰り返すことになった。二年余り続いた開発で湿度の影響を受けず、丈夫な枠組みの構造を持つ「ストロングライト」が開発でき、平成五年から本格的に販売を開始することになった。
販売では問屋も大切にしたが、利益率の高い直販を心掛けることにした。ホテル、旅館、結婚式場などの需要家にダイレクトメールを発送したり、業界誌に広告を掲載してみたが反応は薄かった。偶然にホテル、ブライダル関係の見本市が存在することを知り、平成九年から見本市だけで勝負することにした。見本市では直販の商談を行ったが、同時に社名を業界の人達に宣伝することも力を入れた。浅井の名が企業に知れると、金屏風を購入するときに納品業者に浅井を指定してくれるからだ。現在では直販が六割、問屋経由が四割となり、年商は五千万円になった。金屏風の販売統計が無いため正確ではないが、全国のマーケットは年間一億五千万円と推測されている。浅井のシェアは三十%を越したが、同業者が廃業していくためこれからもシェアは伸び、日本一となるのも遠いことではなくなった。
● これからの展開
次に狙っている商品は「掛軸」である。古臭いと思われる掛軸をIT技術のインターネットを利用して、消費者に通信販売することにした。新旧の意外な組合せで掛軸が本当に売れるのか、と疑問に思われるかもしれない。しかし、若い人は敷居の高い美術商や骨董店を嫌がり、明朗価格のインターネットを好むようである。掛軸の通信販売は平成十五年から始めたが、二年目には年商三千万円になった。掛軸の販売でも日本一となるのが浅井の夢である。
2005年09月14日
●連載第6回


世界で最初の全自動タマネギ皮むき機です。
街の洋食屋さんが開発しました。
● 調理の作業を助ける機械
玉ねぎはカレーや牛丼などには欠かせない素材であるが、玉ねぎを刻むと刺激臭が発散し、涙が止まらなくなる。剥いた玉ねぎからは、硫黄を含んだ硫化アリルという催涙性の成分が発散するからである。眼や鼻を刺激するため、料理店の調理人にとっても玉ねぎを刻む作業は嫌なことである。玉ねぎを皮剥きしてくれる機械があれば、調理人の毎日の業務が楽になるはずである。
オニオンエム(小林二郎社長)は、世界でも珍しい玉ねぎの全自動皮剥き機『玉ジロー』を開発した会社である。しかも、この機械は根とヘタを同時に切取り、玉ねぎをむき身の状態に加工できる優れた能力を持っている。
● 必要に迫られた開発
小林社長は昭和三十九年に神田神保町で『キッチンジロー』という小さな洋食店を開業した。値段の割に味が良かったため繁盛したのだが、将来のことを考えて多店舗化を考えた。店で働いていた職人に新しい店を任せ、店舗の数を増やすことにしていった。
多店舗化の計画は順調に進んでいったのだが、店によって味が違ってくる問題が発生した。店長の調理の腕が違うため、料理の味が変わってくるからだ。全店で同じ味を維持するため、昭和五十年からセントラルキッチン方式を採用することになった。調理工場で食肉や野菜を下ごしらえし、半加工の状態で食材を各店に配達するのである。
この調理工場での作業に玉ねぎの皮を剥く工程があったが、この作業は前述したように誰もが嫌がる辛いものであった。パートを採用しても離職する率が高く、外国人も働かなかった。この作業を自動化する必要があり、平成元年に市販していた玉ねぎの処理装置を購入してみた。この機械は、V字形をした刃が左右から飛び出して根を切り取る構造のものであったが、二つの刃が正確に根の部分に嵌まらないため失敗率が高く、予想していたような能力を発揮できなかった。購入してから半年で廃棄し、それから暫くは自動化の計画は中断してしまった。
● 改良と試作の連続
平成四年に小林社長はキッチンジローの役職を退いたので時間の余裕ができ、以前から温めてきた玉ねぎの処理機の研究に取りかかった。一番の問題は玉ねぎの根を切り取るための機構で、従来のような刃物では実現できなかった。ある時、電動ドリルで木材に穴を明ける木工作業をしていた際に、ドリルの回転刃で玉ねぎの根の部分を堀り取れば良いのではないかと気がついた。刃物で切るのではなく、回転刃で玉ねぎに穴を明けるという斬新な発想であった。
早速、社長自身で実証機を自作することにした。木材で机のような作業台を組み立て、真ん中に玉ねぎを置く穴を明けた。作業台には木製のアームを上下に動くように連結し、アームの先端には電動ドリルを固定した。さらに、作業台の裏側には水平に移動できる回転刃を取り付けた。この自作機では、作業台の穴に玉ねぎを逆さに載せてアームを下げると、ドリルが玉ねぎの根の部分に穴を明け、根を取り除くことができる。同時に、作業台の裏の回転刃が水平に移動し、穴の下面に露出した玉ねぎのヘタを切断する。根とヘタを取り除いた後は、圧縮空気を玉ねぎに吹き付けて表面の皮を剥がすことができる。これらの動作で、玉ねぎをむき身に加工できることが実証でき、この原理は現在の『玉ジロー』の基本的構造となった。
アイデアを実現させる実証機は木製であったので自作できたが、金属製の処理装置は小林社長には無理であった。本格的な処理装置の設計と製造は外注することにし、第一号の試作機は平成五年三月に完成した。直ちに、食品加工機械の見本市に出品したが、ブースの周りに人垣ができるほどの大変な反響となった。それまで、玉ねぎの根とヘタを同時に切り取り、皮を剥ぐことできる処理装置は無かったからだ。この第一号は欠陥だらけであったので、販売はしなかった。しかし、見本市での業界の反応により、この機械は売れるはずだ、という強い確信を小林社長は感じ取ることができた。
その後、改良を続けて平成八年には4号目の試作機を製作し、販売することにした。数台は売れたのだが、ドリルの刃が根に付着した砂で磨耗するので、長期の稼働ができない苦情が入ってきた。また、玉ねぎの皮を剥ぐ機構でも欠陥が見つかったので、販売はひとまず中止し、さらなる改良をすることになった。
平成十二年には十五号目の試作機が完成したが、この試作機はほぼ理想の機能を持ち、狭い調理場にも設置できるように五十センチメートル四方の床面積に納めることができた。この年から本格的に玉ジローの営業活動を始め、それ以降は、毎年十数台を販売できるようになったが、ここに至までには八年の歳月がかかり、出願した特許は十五件、実用新案は四件にもなった。試作機の設計と製作は全て外部に委託したため、一台の試作機を製作するには三百万円前後がかかった。これまでに投入した開発費は累計で数千万円にものぼり、玉ジローの開発は小林社長の道楽のようなものであった。
● これからの展開
小林社長が想定した玉ジローの販売先は、一日に二~三百キログラムの玉ねぎを処理する料理店であった。この程度の量を処理しなければならない企業は国内に多いようで、弁当屋、惣菜屋、給食センターなどからも注文が舞い込んできた。さらに、昨今では食料品の原産地表示(トレーサビリティ)による予想もしない新しいマーケットが現れた。無農薬野菜や有機野菜を使用している料理店が玉ジローを購入するようになってきたからだ。無農薬野菜の使用を表示している料理店でも、それまでは玉ねぎの皮剥き作業を外注していたところが多かった。だが、外部に委託すると農薬を使った玉ねぎが混じることもあり、品質の保証ができなくなる。玉ジローを社内に導入することで、玉ねぎの原産地を正確に維持することができるようになった。思わぬマーケットが追い風となり、これから玉ジローの販売は増加していくようだ。
2005年08月13日
●連載第5回


金型などの重量物を直角に反転させるだけの機械です。
宣伝をしていなのであまり知られていませんが着実に売れてます。
安全を重視する企業が購入しています。
● 重量物を反転させる需要
物臭な人のたとえに、『縦のものを横にもしない』という表現がある。縦に置いてある物を横に寝かせることは、誰でもできる簡単な作業の比喩であろう。日常生活の範囲では、机やタンスなどをひっくり返すのはたやすいことである。
さて、工場などでは、金型やエンジンなどを反転させる作業工程がしばしば発生する。加工や点検の作業準備のために、金型やエンジンの特定の面を上方に向ける必要があるからだ。だが、自重が数トンから数十トンもあるような重量物を横にするには、机やタンスのようにはいかない。しかも、反転させた金型やエンジンに傷を付けず、人身事故を起こさないことが要求される。こうして、重量物を直角に反転させるだけの能力をもたせた専門機械の需要が発生した。デンソン(田村樹社長)は、世界でも珍しい反転機の製造を専業としているメーカーである。
● 仕事の効率化のために開発
田村社長が現在の会社を興す前は、樹脂成形の会社に技術者として勤めていた。この会社では、射出成形によりテレビや洗濯機などの家庭用電化製品に使う外装品を製造していた。樹脂成形では、成形機に金型を嵌め込み、金型内の空間に溶融した樹脂を注入して成形品を製造しており、金型が必需品である。金型は構造や形状により数種類に分類されるが、その中に入子型と呼ばれる種類がある。入子型では、ベースとなるオス型、メス型の接合面に入子と呼ばれるブロックを組み合わせることができる。ベースと入子の組み合わせを変更することで、異なったデザインの樹脂成形品を射出成形することができ、多品種少量生産に向いている。
この入子型でのブロックの変更では、オス型、メス型の面を水平にするため、成形機から金型を取り外し、金型を九十度回転させるなければならない。重量のある金型をクレーンやチェーンブロックなどを使って反転させるとなると、時間がかかるものであった。準備作業が長くなると、成形機の稼働率が低下して採算が悪くなる。作業現場での効率化を図るには、金型を自動的に反転できる専用機の導入が要望された。
このため、当時に販売されていた反転機を検討したのだが、期待できるような能力を持ち合わせていなかった。その時の反転機は、二枚の鉄板を直角に配置して接合し、側面から見てL字形となった一対の鉄板を架台の上で回転させる構造であった。この機械は全体が嵩張るものであり、作業の細かな変更ができないなどの欠点だらけのものであった。これがキッカケとなり、田村社長は自ら図面を引いて、現場で使いやすい理想とする反転機を開発することになった。
開発した反転機は、一本の軸の左右に平坦な反転板を回転自在に連結した構造であり、原理的には現在発売しているものとほぼ同じであった。それぞれの反転板は油圧シリンダーにより中心軸の左右で九十度づつ回動でき、蝶の羽根のように動かすことができる。金型の直交した面に各反転板を接触させ、二つの反転板を同期させて回動することにより金型を反転できるものである。使用していない時は両反転板を水平にできるため、工場の床と同じ高さとなって邪魔にならない長所がある。しかし、この試作品は二系統の油圧シリンダーの同期が取れず、二枚の反転板を直角にしたままで回動できず、失敗に終わった。
● 反転機の完成と販売
その後、昭和五六年に田村社長は脱サラし、東南アジアに中古の樹脂成形機を輸出する会社を興した。中国などで技術指導するエンジニアリングの仕事も手掛けたが、当時の中国での技術レベルは低く、日本の樹脂成形技術を必要としていたため事業は順調であった。だが、脱サラ後も田村社長は理想とする反転機を完成する夢を持ち、電気、機械、油圧の勉強を再開した。最初の失敗は技術の知識が不足していたためであり、複数分野の技術を組み合わせなければ目的を達成できないからであった。
脱サラして三年後には、二つの反転板を正確に同期させて回動でき、金型を静かに反転できる実用機が完成した。早速、金型を使用している企業に営業に出掛けたのだが、サッパリ売れなかった。作業現場にあれば便利な機械なのだが、当時はどの企業も必要性を感じなかったからである。数回の営業活動で中止し、その後は口コミでポソポソと注文があるのを待っことにした。
製品の反響が悪いことと同時に、製造コストが高いという問題もあった。初期の頃は社内で設計していたが、製造の全てを外注していた。この方法では製造コストが高くなり、仕入価格よりも販売価格が安い逆転現象となり、販売の度に赤字に陥ってしまった。このため、切削機などを購入し、比較的大型の骨格部分を除き、全ての部品の内製化を進めることにした。平成七年には、部品の加工と組み立ての内製化が終了し、製造コストを下げることに成功したため利益が出るようになった。
実用機の完成から、製品の販売で採算がとれるようになるまでに十年以上かかったことになる。この間の開発資金は、輸出やコンサルティングで得た利益を投入しており、ひたすら夢を実現させるための努力を続けた。長期に渡って反転機の開発に執着したのは、田村社長に技術者としての意地があったと同時に、「反転機は将来必ず売れる」という確執があったからだ。
● 反転の危険性と実際の需要
さて、金型を反転させる作業では、クレーンで金型を引き倒す方法が主流である。この作業では、金型が転倒する際の重心の移動でワイヤーが切断したり、金型に固定した吊りボルトが抜け出す事故が発生し、人身事故の原因となるものである。金型を反転させるのは、実は極めて危険な作業なのだ。金型を反転させる際に発生する事故は労働災害の統計には現れないが、相当数の死傷者が発生していると言われている。だが、金型の反転作業には保安基準はなく、クレーンを使って転倒させても違法ではなく、現在でもこの方法を採用している企業が大半である。
だが、安全を優先させ、工場での事故を防止しようとする企業は、自然と反転機に目を向けるようになってきた。内製化が完了するより少し前の平成五年頃から、デンソンの反転機は徐々に売れ始めた。しかし、工場設備に必要不可欠な機械でないことから、反転機を導入できる企業は収益が良好な大企業に偏っているのが実情である。現在は、自動車産業が主な得意先であり、新規に竣工した自動車関連の工場には殆ど導入され、中国、米国に進出した日系の工場にも輸出されるようになってきた。静かであるが着実な売れ行きとなってきた。
● これからの展開
デンソンの従業員は十名であるが、将来もこの程度の人数で運営していく方針である。反転機が売れ始めるまで、十数年もじっくりと構えていたのである。これからも企業規模を大きくすることを追わず、ノンビリした経営を続けるのが田村社長の願望である。
2005年07月14日
●連載第4回


社長一人で製造しているシャボン玉発生器です。
老後をのんびりと生産している「中野製作所」。
● 夢をかき立てるしゃぼん玉
どんな大人でも、子供の頃には一度はしゃぼん玉を飛ばして遊ばれたことがあるであろう。ストローに液を付けて軽く吹くと、無数の小さな玉が飛び出し、風に乗って暫くの間は空中で漂う。薄いしゃぼん玉の表面は虹のような色に変化し、はかなく消えていく。生き物のような動きを面白く感じ、飽きもせずに眺められた体験をお持ちではなかろうか。
しゃぼん玉は幼児の一時期に遊ぶもので、小学校も高学年となると振り向きもされない。このため、しゃぼん玉の道具は安価な玩具として扱われているようで、製造している玩具会社も全国で数社あるが、何れも似たような簡単な形態である。そんな風潮の中で、モーターでしゃぼん玉を連続して吹き出させる本格的なしゃぼん玉発生器を製造しているのが上野製作所(上野昇吾社長)である。国内にはしゃぼん玉発生器を製造した企業は数社あるが、それらはイベントなどへの貸し出し用のものであり、販売はしていない。複数種の商品をカタログに掲載し、常時販売しているのは上野製作所が国内で唯一のようである。
● 余業で始まった試作品の製造
昭和24年に中学校を卒業した上野社長は、映画館用映写機のメーカーに就職した。当時は映画産業の全盛期であり、全国の映画館から新規開館、改装の仕事が舞い込んでいた。上野社長は各地の映画館に出向き、映写機の設置や照明器具の施工をすることになった。専門学校を卒業したのではなかったが、この仕事を通じて電気の技術を学び、映画館のような舞台のある施設に設置する照明設備の知識を身につけることができた。映画館や劇場で使用する照明設備は、一般の建物とは異なった特殊なものであり、専門性が高いものである。
その後、映画産業はテレビの普及で衰退したため、ゴーゴーバーから発展したディスコの照明の工事を受注するようになった。昭和四二年に赤坂で開業したディスコではストロボや豆電球などの照明器具を多用した、サイケデリックなものであった。舞台では外人バンドによる生演奏があり、芸能人が集まる流行の最先端をいくものであり、今でも語り種になっている。この成功から暫くはディスコの店内照明の工事を行っていたが、或るとき有名人の結婚式の照明を請け負うことがあった。この仕事により、結婚式場を専門とする建築業者と知り合うことになり、結婚式場に設置する照明器具の電気工事をしてみないか、と誘われた。こうして、昭和四六年に従業員四名を雇い、元請け会社が受注してきた工事の内で、照明設備の電気工事だけを請け負う工事会社を興すことになった。
この頃は、団塊の世代が結婚を始める時期で、結婚式場の新築、改築が増え、仕事が切れることはなかった。そんな時、アメリカから来日したサーカス団がしゃぼん玉を自動的に発生させる機械を持ってきた、と知人から聞かされた。サーカス団が公演する合間にその機械でしゃぼん玉を場内に飛ばし、夢のような雰囲気を演出させるためのものであったようだ。その話を聞いた上野社長は、実物を見たことは無かったのだが同じ機械を作ってみよう、と考えた。商品化して販売する計画があったのでは無く、面白い機械を造ってみようという好奇心からであった。
装置の基本的な構造は難しいものではなく、数日で考え出した。蛇腹状の金属輪をモーターで回転させてしゃぼん玉液をすくい上げ、その金属輪に送風機で風を送る構造である。また、装置の外装が金属製では錆びるため、全ての部品に塩化ビニールを使用した。この時製作した一号機は技術的に完成されたもので、その後に改良する必要もなく、現在販売している中型機と全く同じで構造である。問題はしゃぼん玉液であった。最初は石鹸を溶かした液を使ったが、これでは安定したしゃぼん玉を発生させることができなかった。化学会社や洗剤会社から知恵を借りて研究した結果、界面活性剤を主成分とした溶液が最適であることが判った。半年ほど原料の調合比などを調整して実験を続け、膜が薄くて丈夫なしゃぼん玉を安定して発生できる原液を開発することができた。しゃぼん膜が薄くなければ七色の虹が表出しないのであり、ここが成功の要素であった。
完成したしゃぼん玉発生器は、結婚式場の工事を受注していた元請け会社が目をつけ、販売代理してくれた。しゃぼん玉が披露宴会場に吹き出ると華やかな雰囲気に演出できるからであり、それまで無かった商品のためどの結婚式場でも購入してくれた。上野社長は本業の電気工事の合間にしゃぼん玉発生器を製造していた。副業のつもりであったが、それでも最盛期には一カ月に百台も出荷した。
● しゃぼん玉発生器に専念する
上野社長の仕事は戦後の第三次産業の栄枯により、映画館、ディスコ、結婚式場と変わった。いつの時代もそれぞれの業界の絶好期と一致し、幸運な人生であった。その後、結婚人口の減少により、平成十年には結婚式場の工事を専門としていた元請け会社が清算したので、上野社長はしゃぼん玉発生器の製造に専念することになった。
それまでは結婚式場向けに製造してきたので一種類しか商品がなかったが、専業のため種類を増やすことにした。最初は、しゃぼん玉を八メートルの高さまで吹き上げる、ミカン箱程の大型機を開発した。次いで小型化に目を向け、乾電池で動作して手の上に乗る小型機まで開発した。現在では九種類の商品群を揃えることになった。
営業は見本市を積極的に利用し、イベントや舞台に関係する見本市に年三回は出展し、直接顧客に販売することになった。この販売方法では顧客の反応を知ることができ、結婚式場や劇場しか購入しないと考えていた予想が外れ、販路が広がったのである。ラブホテルでは客室に設置し、温泉旅館では露天風呂の岩陰に設置して使用していた。或る幼稚園では、幼児が来園する朝の短い時間だけしゃぼん玉を吹き出していた。園児がしゃぼん玉を見たくて、積極的に来園する効果があるという。商品を見た顧客が、それぞれの発想で用途や利用方法を創出してくれたのだった。
● これからの展開
現在、上野製作所は見本市だけで営業をしていて、広告などの宣伝はしていない。それだけで年間を通じて注文が途切れることはなく、社長一人で製造するには十分な受注量を確保している。注文が増えたとしても、下請けや委託による製造はしない方針であり、従業員を採用して企業規模を大きくする予定もない。工場の設備は三十年前の旧型の加工機械を今だに使用していて、製造過程は手作りのようなものである。
だが、収益性を考えると、設備投資して大量に生産するよりも、社長のペースで少量を生産した方が良好なのである。競合会社が無いことから、注文は口コミによって自然と増えていくのである。無理な投資をせず、古臭い町工場のような運営の形態が、実は一番安定した経営なのではなかろうか。
2005年06月14日
●連載第3回


ドラム缶の運搬に特化した商品開発。
ローテクを目指す『京浜パーカライジング』
ドラム缶運搬具の製造、『京浜パーカライジング』
● 零細企業が困っていることをお手伝い
液体を保管したり運搬するための容器にドラム缶がある。寒冷地で石油ストーブを使用する家庭では灯油をドラム缶単位で購入していて、一般にも馴染み深い。だが、ドラム缶は灯油のみならず、薬品、染料、食品などの運搬のために産業界で広く利用されている。昔から形や規格が変わらず、古臭いように思われるが、頑丈で、何度も再利用できるため、これからも使われ続けるであろう。
ドラム缶に液体を充填すると総重量は二百キログラム以上となり、トラックに積み込んだり、倉庫内で移動させるには人力では難しい。大きな工場ではフォークリフト車を使っているが、小さな商店では高価で購入できない。ドラム缶ごと液体や薬品を購入するのは、クリーニング店や捺染業者のような零細な企業が殆どである。町工場のような末端の需要家層はドラム缶の運搬に困っていたのが実情であった。
こうした小規模の需要家にのために、簡易な機構であるが、現場の職人達に便利なドラム缶運搬具を製造しているのが京浜パーカライジング(笹岡益良社長)である。
● 社長の夢を実現させる長い道のり
社名にパーカライジングとあることから判るように、金属製品の表面を化学薬品でパーカ(被膜)処理するのが業務である。金属に付着した油性分などを除去し、塗料をしっかり付着させるための前処理である。化学処理会社が本来の業務とは全く無関係の重量物のドラム缶運搬具を製造しているのだが、ここに至までには有為曲折あった。
大手の空調設備会社に勤めていた笹岡社長は、昭和四五年頃に退職し、空調機器の据え付けと修理を専門とする会社を興した。当時はビル冷房の走りの頃で、パッケージ型と呼ばれる大型の空調機器が主体であった。この空調機器のコンプレッサーが故障すると、コンプレッサーを本体から取り出して分解修理しなければならなかった。当時のコンプレッサーは百キログラム以上あり、本体から取り出す作業だけでも大変であった。修理の仕事を楽にして早く終了させるため、笹岡社長はコンプレッサーを吊り上げて移動させる道具を自作した。丈夫な台車に上下に回動できるアームを取り付け、アームをジャッキで押し上げる簡単な構造である。アームの先端でコンプレッサーを吊り上げ、作業現場でコンプレッサーを楽に取り出すことができるようになった。
この運搬具は業界での評判が良く、当時で三百台が売れたため商売になると感じ、京浜急行青物横丁駅の近くの店舗で、本来の空調設備の業務の傍ら重量物運搬具の製造と販売を開始することになった。ここまでは順調であったが、昭和五五年に詐欺事件に引っ掛かり、計画が頓挫してしまった。販売に協力するという人物が現れたのだが、この人物がとんでもない人物であった。笹岡社長の会社名で取り込み詐欺を行い、雲隠れしてしまったのである。莫大な借金の尻拭いをさせられる羽目になり、十年近くかかって借金を返済することになった。
その後、以前の取引先だった知人から現在の会社を任され、平成元年からは空調設備業とは畑違いのパーカ処理に取り組むことになった。会社が順調になって余裕が出てきた平成七年になると、以前からの夢であったモノ造りを実現させるため、中断していた運搬具の製造を再開することになった。工場の空き地に廃材で四坪程の作業小屋を建て、中古の旋盤や溶接機などを揃えた。定年となった職人を雇い、手作りであるが量産できる体制を整えた。この時、笹岡社長は六五歳になっていた。
● ローテクのシンプルさが売りの作業道具
現在販売している製品のラインナップは三つの分野があり、パレット運搬台車、高所移動台、ドラム缶運搬具である。さらに細かく分類すれば十三種類にもなる。これらの製品群はモノ造りを再開した平成七年から開発されたものではなく、三十年以上前から始まっている。
工業学校を卒業した笹岡社長はモノ造りに対してなみなみならぬ熱意があり、身体を動かして金属材料を加工し、今まで無かった商品を工夫して形にする過程に趣味があり、生き甲斐でもあった。特に、重い物やかさばる物を運搬する道具の開発には執着していた。青物横丁で店を構えていた時、近所の人のために運搬具を製作することがあった。笹岡社長が製作した道具は良く工夫されていて、「現場で働く人達が楽になった」と評判が良かった。口コミで、「重いものを運ぶのに困ったら笹岡さんに相談してみたら」と言われるまでになり、各種の運搬具の開発を頼まれることが多くなった。そんな依頼の中から、現在販売している商品の開発のヒントが含まれていた。
パレットの下に挿入し、テコによりパレットを持ち上げて移動させるパレット運搬台車は紙問屋から頼まれた。原紙をパレットに積み上げると百キログラム以上の重さにり、運転手一人だけでは引き出して移動させるのは難しいからであった。ハンドルを回すことでチェーンを巻き上げ、二重になった筒を上下に伸縮させることで重量物を持ち上げる高所移動台は、電気工事店から頼まれた。クーラーの室内機を壁の高い位置まで持ち上げて、助手なしで職人一人で据え付け工事ができれば、人手不足の工事店が助かるからである。
ドラム缶を立てたままで水平に移動させることができるドラム缶運搬具「ドラムスコ」は得心の作品である。垂直に立てたドラム缶を少し傾け、開いた底に半円形の台車を挿入し、ドラム缶を戻すことで台車に搭載させ、台車ごと移動させる構造である。一人ではとても移動できない重量のドラム缶をテコの原理を応用して台車に載せ、女性でも軽々と移動させることができる。このドラムスコは知人の奥さんのために開発したものである。ドラム缶を運搬する仕事をしていた知人が亡くなり、奥さん一人でドラム缶を顧客先まで運搬しなければならず、困っていたのを見て開発したそうだ。
● これからの展開について
笹岡社長のモノ造りに対する発想は、作業現場で働く人達の目線で開発していることである。各製品は軽量に設計してあり、一人でトラックやライトバンに搭載することができる。比較的大きな商品は、全ての部材を分解でき、作業現場で組み立てて使用できるように工夫してある。しかも、油圧やモーターなどの動力源を用いず、今では誰も見向きもしないローテクに徹していることに特徴がある。ローテクであることから、製品が安価となり、軽量で壊れ難く、職人達にとっては使いやすいものとなった。
今まで宣伝に力を入れなかったため、ドラムスコなどの知名度は低い。昨年、初めて見本市に出品したところ、大きな反響を得た。大企業の技術者にはない発想の商品ばかりであったからだ。これからはインターネットなどを利用した販売体制を強化し、全国に向けて道具としての運搬具を販売することを計画している。
2005年05月16日
●連載第2回


自転車安全用具のトップメーカー「ヨシオ」。
細かい商品ですが、零細企業が全国を制覇するのは難しかった。
自転車用安全機器のトップメーカー、『ヨシオ』
● 下請けからメーカーに
走行する自転車は軽くてふらふらするため自動車と接触し易く、人身事故につながる。特に、夜間では危険であり、暗闇の中で小さな自転車をドライバーが見つけるのは難しい。市販の自転車の泥除けやペダルには小さな反射材を取り付けるられている。だが、小さな反射材だけでは心もとなく、交通事故を防止できにくい。ヘッドランプの光を確実に反射させ、自転車の位置を認識させる安全用品が必要となる。
足立区の『ヨシオ』は、先代の社長が昭和23年に創業した典型的な下請け企業で、三輪車の部品の製造をしていた。二代目の現社長、小泉俊夫氏に代替わりとなってから、自社開発の商品を販売し、下請けから脱皮することが悲願となった。ふとしたことからオリジナルの自転車用反射安全用品を開発し、この業界でのトップメーカーに変身した中小企業である。
● 開発のきっかけ
平成元年頃、夜間に小泉社長が自動車を運転していたとき、左折しようとして左側にいた自転車と接触しそうになった。暗かったので自転車の姿を見つけられなかったのである。自転車に取り付けてある反射材は後方からの光では反射するが、側面からでは反射できない。これが見にくい原因であった。この経験から、自転車にどの方向からでも反射する安全用品を開発すれば事故を防ぐことができるのではないか、と思い付いた。
ちょうどその頃、社内には大量の反射材料が死蔵されていて、その処分に頭を悩ませていた。この材料を自転車の安全用品として製品化すれば、不良在庫を一掃できるとひらめいた。同時に、自転車のハンドルに装着してあるゴムのグリップの空気穴には、反射材を簡単に取り付けることができると考えた。
こんな連想により、グリップの空気穴に止めピンを挿入し、止めピンの先端から反射材を鎖で垂れ下げる反射アクセサリーを思い付くのには時間がかからなかった。苦労したのは止めピンである。グリップの空気穴に一度差し込んだら抜け落ちないようにしなければならない。弾性のあるバネを独特の形に曲げることで抜けない構造のピンが出来上がった。
この反射アクセサリーに『ほたる君』と名付けた。左右のハンドルの先端から鎖で反射材が垂れ下がり、女性のイヤリングのようになった。風によって反射材が揺れたり回転すし、どの方向からでも光を反射することができる。暗闇であってもヘッドライトからの光を反射して自転車の存在を認識させることができる。自動車の左右で点灯している車幅灯と同じように、自転車の車幅灯の機能を持っている。今までにない、全くのオリジナルの自転車用の安全用品となった。
● 販路の拡大に努力
『ほたる君』の量産は自社設備で容易にできたが、問題は販売方法であった。下請け仕事を続けてきたため、オリジナル商品の販売は始めて取り組む仕事であり、社内の誰も経験したことが無かった。手探りで販売ルートの開拓をすることになった。
まず、定価を三百八十円(現在は五百円)に設定し、自転車用品の問屋に販売を依頼してみた。だが、いつまでたっても売れず、全品返品されてしまった。ヨシオでは半額の百九十円で出荷しても十分に採算が取れるが、こんな定価では流通業者が潤わない。問屋、小売店の立場を考えず、価格設定を間違てしまった。流通機構の仕組みを知らなかったのであった。
次に、近所の自転車屋、クリーニング屋、八百屋などに頼み、店頭で販売してもらうことにした。期待していた自転車屋では全く売れなかった。後で考えると、顧客が自転車屋を訪れるのはパンクしたとき位で、年に数回も無い。自転車を日常使用しているからといっても自転車屋を頻繁に訪れているのではなかった。予想に反して、良く売れたのがクリーニング屋であった。クリーニング屋の顧客の多くは自転車で来店する。店頭で用事を済ませている時に、目に付いた『ほたる君』を買ってくれた。クリーニング屋まで乗ってきた自転車と店先で販売している自転車用の商品が結びついていたからであった。自転車に関連した商品であるから、自転車屋で売れるものではなく、マーケティングの失敗であった。
みやげ物屋、スーパーなどの考えられるルートに商品を持ち込んだが、同時に宣伝活動も行うことにした。隙間のような商品では、その存在を周知させなければ売れないからだ。だが、宣伝費はかけられない。そこで、軽井沢の貸自転車に目を付けた。観光客が利用する貸自転車に取り付けておけば親しみが湧き、どこかで買ってくれるであろうと予想したからだ。貸自転車屋に頼み、三千台の自転車の全てに無料で取り付けた。軽井沢の貸自転車に見かけないアクセサリーが取り付けられたので、テレビ番組で取り上げられ、知名度は上昇した。
発売した当初は全くと言っていいほど売れなかった。ふと、定価を付けないで配布するノベルティー商品に利用できないものか、と思い付いた。公共機関が買い上げて、無償で配布して貰えるのなら大量にさばくことができる。区役所、地元の警察署に足を運び、交通安全のキャンペーンのためのノベルティーに採用して貰うように働きかけた。後になって交通安全協会が買上げてくれ、全国に配布してくれるようになった。
● これからの展開について
新商品は、売る場所、売る方法を熟知し、適正な流通ルートに乗せなければ売れない。当たり前のことであるが、ヨシオにとっては未知の世界であった。一年位の間にマーケッティングから広告までの、販売に必要な常識を全てこなさなければならなかった。この努力により、平成三年から順調に売れ始めるようになった。オリジナルの『ほたる君』はヒットし、現在では毎年五十万個を出荷できるようになった。
これからのヨシオは、事業を三本柱に分けていく予定である。第一が従来からの賃加工による下請け仕事である。利益は薄いが安定した売り上げを確保でき、親会社とのつながりから新技術や流行などの情報を入手できるメリットがある。第二は、今まで続いているほたる君のような交通安全を狙った自転車安全用品である。第三は、オリジナルの防犯用品である。世の中が不安になって犯罪が増えてきたため、安全をテーマとした商品が必要とされてきた。防犯ブザーや防犯ネットのような、中小企業が得意とする分野での防犯商品の開発に力を入れていく予定である。
2005年04月16日
●連載第1回

連載で初めてのため、ニッチの解説をしました。(長文注意)
【月刊 信用組合 4月号 第1回】
●ごあいさつ
今月から、「ニッチでリッチ」を連載することになりました。このタイトルには、ニッチ(隙間)のマーケットで販売する商品を製造して、貴方の会社もリッチ(金持ち)になりましょう、という期待を込めました。
「ニッチ」とは耳慣れない言葉ですが、元来は壁に穿った小さな窪み、という意味でした。それが転じて現在では、小さな企業、狭い業界を指すことが多くなりました。新聞などの記事には、ニッチ産業、ニッチ商品、ニッチ戦略のような用例があります。このシリーズでは、小さなマーケットに向けて特殊な商品を製造している、目立たないが健全な経営をしている零細企業をニッチ企業と呼び、彼らが成功した要因を分析します。
ニッチ企業は製造業の分野に多く見かけられますが、生産工場を持った企業だけに狭く限定することはありません。昨今は零細企業であっても設計、企画を自社で行い、製造を他社に委託するファブレス会社も珍しくありません。資金力があって販売ルートを確保しているのであれば、企業の規模は小さくとも委託生産した商品を自社で流通させることができるからです。このため、このシリーズは製造業に関わっている方だけではなく、流通業やサービス業に従事されている方もお読み下さるようお願いします。
●日本の製造業の現状と将来
新聞紙面などではトヨタや日産が史上最高の利益を上げていると報道していますが、それはほんの一部であり、国内の大部分の製造業は商品が売れないため青息吐息です。その原因は東南アジア、特に中国から安い商品が怒濤のように押し寄せているからです。ロケットや核弾頭は輸出してきませんが、衣類、雑貨などの軽工業品を始めとしてテレビ、パソコンなどの電気製品までのあらゆる消費財、耐久財が中国から輸入されてきています。少し前までは品質が劣っていたのですが、技術進歩が進んで国産と変わらぬ品質となってきたので、消費者は安い中国製品を選ぶことになります。
大量生産労働集約型の製造業では人件費が大きなコストとなります。中国では日本の二十分の一の人件費であり、同じ品質、同じ機能の商品を安く製造できるのは当たり前のことです。日本の企業も安い人件費に魅力を感じて、国内の工場を閉鎖して中国に乗り込んでいます。現地の日系工場から安い商品が輸入されるため、国産品は売れずさらに悪循環となっています。
福助、世界長、カネボウといった老舗でもあっても軒並み左前となり、それぞれが産業再生機構の傘下に入りました。大企業でさえこんな有り様ですから、大企業の下請けだった中小零細の町工場は倒産や整理によって消えています。このような社会の変化に対して、日本の中小零細企業は進路を転換しなければならない時期にあります。だが、どのような方策を立てたら良いか、先が見えないのが実情でしょう。
●ニッチは零細企業の最後の砦
全ての中小零細企業が外国製品によって苦しんでいる訳ではなく、元気の良い中小零細企業もあちこちに見られます。それらの多くは大企業が手を出さない(出せない)隙間商品を製造しているニッチ企業です。隙間商品とは、年商が小さくて余り汎用性の無い商品のことを指します。売上高が少ないのですが利益率は非常に高く、場合によっては価格の九十%が粗利のこともあります。
利益率が高いのは、ほとんどのニッチ企業が業界でオンリーワン企業であることが多く、市場の要求とは裏腹に価格を自由に設定できるからです。また、隙間商品はプロが必需品として使うものが多く、機能の特殊性や信頼性のために高くても納得して購入してくれるからです。
私は、これから日本で生き残ることができる中小零細企業は、モノ造りに特化したニッチ企業ではないか、と考えています。バブルの時代には、投資やリゾートなどの第三次産業が持て囃されましたが、そんな浮ついた企業は今となっては跡形もなく消えています。人間が生活していれば必ずモノを消費します。生活に関わりのあるモノ造りであれば、時代や景気に左右されず、企業は継続することができます。モノ造りは産業の根幹をなすものであり、地味ではあっても決して廃れることはありません。
モノ造り企業の長所は、都会でなくとも地方で起業できることです。昨今のITの発達により、通信インフラが整備されてきていて、全国どこでも同じ料金で電話をかけることができるようになりました。また、製造した商品は宅配便により、全国どこでも翌日には配送させることができます。地方に在住する零細企業であっても、都会から遠距離であることは昔ほどのハンディとはならなくなりました。地方の零細企業でも、隙間商品をヒットさせたなら、大きな利益を得られる夢が持てるようになりました。
●ニッチ企業の取材
ニッチ企業は景気の影響を受けることが少なく、高い収益性を保っています。しかし、新聞、経済誌などでは滅多に紹介されることはありません。マスコミなどでニッチ企業が社会一般に知られてしまったら、儲かるシステムを競争相手に教えることになり、オンリーワンとしてのメリットが無くなるからです。また、マスコミは、経営が優れていても小さな零細企業を取材したがりません。大量の広告により知名度が高く、誰でもが知っている大企業を取り上げた方が読者受けするからです。
次回から、世間には知られていないニッチ企業を取材し、どのように隙間商品と出会って成功したか、を詳しく報告します。私が取り上げる企業は、珍しい商品や面白い商品を製造している企業ではなく、次の条件に適合していることが必要となります。
①一種類の商品で年間の売上高が三億円以下である。この程度の売上高であれば、市場が狭くて大企業が乗り込んでくる恐れがないからです。
②従業員が五十名以下である。この人数の中小零細企業が国内で数が多く、同じ規模の企業が経営方針を参考にするための事例としては一番相応しいからです。
③オリジナルの完成品を製造している。部品の製造ではなく、自社ブランドの商品を製造していることが利益率を高めることができるからです。
③職人技で製造されたものではない。職人が辞められたなら商品が製造できなくなるのでは企業が永続しません。ローテクで誰でもが製造できる商品でなければなりません。
皆様の会社をニッチ企業として転身される際に、私の記事が成功のためのヒントとしてお役に立つことを期待しています。